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 息子の心境など全く気にする様子もなく、母親は首を振り振り続ける。

「はあ。桜さんにお願いしておこうかしらね。あんたが、その子に好いてもらえるように」

 言って、母親が枕元の棚に置いてあるお手製の『桜のお守り』に、半分冗談じゃない目を向けるのを少し呆れて見ながら急かした。

「いいから、もう。さっさとフラダンスにでも何にでも行けよ。時間ないんだろ」

 『桜のお守り』に纏わる話は、目が覚めたその時から何度も母親から聞かされている。

 そんな夢を見てそんな解釈をするほど母親に心配をかけてしまったわけだから、素直にお守りにしようと思うけど、母親のこの様子を見ていると、そのうち変な新興宗教とかに騙された上にはまりそうで怖い。

「はいはい。じゃあ、お母さん帰るけど、洗濯物はこっちの紙袋にちゃんと入れておいてよね。あ、そうだ。お母さん明日、習字教室とテニス教室があるから来られないけど、何か用があったら電話しなさいね」

「はいはい」

 一体いくつお稽古教室に通っているんだという突っ込みは、話が長くなりそうなのでしないでおく。習字はともかく、テニスとフラダンスは、どう考えてもその体形に似合わないと思うけど、何にせよ、元気なのはいいことだ。

 

 母親をエレベーターまで送ったついでに、ふと気が向いて廊下途中の便所に寄った。用を足すためじゃない、鏡を見るためだ。髪は今更どうしようもないから仕方ないとして、鬚とか鼻毛とかをチェックする。

 昨日、「みんなで明日お見舞いにいくね」というメールを貰ってから、入院してこっち、ほったらかしていた眉も整えたし、今朝いそいそと鬚も剃った。怪我で入院してるのだから格好つけても無意味だろうけど、せめて汚いやつとは思われたくない。これぞ、健気で可愛い男心というものだろう。

 一月の出会いから早数ヶ月。あの夜ゲットしたアドレスに、事あるたびにメールを送り続けた結果、友達という立場は築くことに成功したけど、あくまで友達というスタンスを彼女は崩さない。多分、いや間違いなく、こっちの気持ちに気づいているのに彼女がそのスタンスを崩さないのは、俺がはっきり言葉で言っていないからだ。そして悲しいかな、これも間違いないことに、今はっきり言葉で気持ちを伝えたら、彼女はきっぱりと言葉と態度で断ってくるだろう。

 男女間の友情は成り立つかという疑問に対する答えは人それぞれだろうけど、俺は成り立つと思う。ただし、男女どちらにも完全に恋愛感情がなければの話だ。片方に気持ちがないのに、片方だけにその気持ちがあると明確になった場合、純粋なる友達関係を続けていくのは、どちらにとっても難しい。

 この数ヶ月、彼女を知ろうとして努力を重ねた結果、彼女が竹を割ったような性格だと分かった。思考も言動もきっぱりとしていて潔い。ある意味かなり男前な彼女は、下手をしたら、気持ちを受け止めてやれない自分と友達関係を続ける俺を思いやって、その関係すら切ろうとする可能性がある。それだけは勘弁願いたい。だから、今は言わない。言えない。女々しい考えかもしれないけど、今はまだ彼女に決断をしてもらいたくはないから。格好つけて言えば、今は彼女の選考期間で、ありのまま言えば、俺の悪あがき期間だ。

 とは言え、友達という関係に甘んじている限り、他の奴にいつ取られるかもしれないという危険が付きまとう。

 実際、彼女は人気がある。男女関係なく友達が多くて、その分予定も多くて何かと忙しい。おかげで、この前のドライブにこぎつけるのに三月までかかってしまったわけだけど、俺の計画を邪魔した彼女のその予定表の中には、女友達との約束だけじゃなくて、男友達との約束もあることを知っている。

 性格がさばさばしていて顔も綺麗ときたら、もてないほうがおかしいと現実を受け止めてはいるけど、俺としては溜め息をつきたくなる。 唯一の救いは、今のところ俺含め誰も彼女のお眼鏡にかなっていないということだ。彼女がフリーでいる限り、俺にもチャンスはある。今は、「友達の中の一人」としか考えてもらえなくても、そのうち、「大事な友達の一人」に、そしていつかは、「友達以上のただ一人」になれるかもしれない。

 その日を信じて、まず今は「大事な友達の一人」になるべく頑張るのみだ。その努力の途中で、彼女のお眼鏡にかなう男が出てきてしまったら、多分立ち直れないくらい凹むけど、その時はその時。すっぱり諦められるかどうかは別にして、彼女の幸せを願って男らしく蔭で大泣きしようと思う。

 

「ぅしっ」

 鏡の前で一人気合を入れた。

 せっかちな心臓が早くも騒ぎ始めるのを宥めながら、病室に戻る。

 病院側からの窓ガラスの一件の詫びで、大部屋の料金で個室にいられることになり、俺は今も個室のままだ。入院なんて小学生の頃した盲腸ぶりだけど、個室入院というのはなかなか便利だ。同室の人の目を気にすることなく、大学の友達が見舞いと称して持ってきたエロ本を見たり、消灯時間後も気兼ねなくゲームをしたりと、結構好きに出来る。ただ残念なことはテレビのチャンネルが民放だけで、アニメチャンネルなんかのCSが入っていないことだ。アニメが観られないのは、かなり痛い。俺にしてみれば、それだけの理由で明日にも退院したいくらいある。まあ、観られない間の分は人に録画を頼んだから、退院するまでの我慢だけども。

 そんなことを考えながら部屋の前まで来たとき、ドアの向こうから声が聞こえた。

 鼓膜が震える感覚と同時に、一気に心臓が高鳴る。

 便所なんかに寄っている場合じゃなかった。いや、最終チェックが出来たのだから、便所に寄って正解だったのか。ああ、しまった。ベッドの上、ぐちゃぐちゃのまま出てきてしまった。でも昨日の夜、エロ本一式をビニール袋に入れて、棚の三段目の引き出しに隠したのは正解だった。何かの間違いで彼女がその引き出しを開けて見てしまっていたとしても、エロ本だとは思うまい。

 俄かに浮き足立って取留めを失くす思考を落ち着けるべく軽く深呼吸して、ぐっと腹に力を入れる。それから勢いをつけて、横開きのドアを一気に開いた。

 

 

 

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