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 その口元に浮かぶのは、いつからか見慣れてしまった、私の嫌いな自嘲めいた微笑。

 私は息を詰めて、その口から溢れる皐月の言葉を耳に拾う。

「真生くんが小さかった頃さ、熱出したり、お腹壊したり、そういう時俺一人じゃ本当何にも出来なくて、あたふたするばかりでさ。でもそういう時、いつも当然みたいに透子がいてくれて、俺じゃ気づかないことに色々気づいて、俺が出来ないこと沢山、真生くんにしてくれてさ。真生くんのこと本当に心配して、本気で怒ったり、悩んだりしてくれて。本当は全然当然のことじゃないのに、当然みたいにそうやって傍にいてくれる透子の、そういうところにずっと甘えてた」

 息をつくように一度口を止めて、皐月がすっと視線をあげる。目が真っ直ぐに合わさった。

「ごめ…」

「謝ったら殴る」

 ぴしゃりと、不愉快さを隠さず私は言った。

 自惚れるな。そう言ってやりたいくらいだった。

「私は皐月のためだと思って、真生に何かをしたことなんて一度もない。真生は、あの子は私の……、」

 まだ背丈が私の腰にも届かない頃から、ずっと見てきたのだ。食べさせて、寝かせて、ぐずるのをあやして。風邪をひけば看病して、背が伸びたら一緒に喜んで。初めてランドセルをからった日も、初めて学ランを着た日も、傍にいた。惚れた男も血の繋がりも関係ない。情が湧かない人間のほうがおかしい。

「とにかく真生のことは、この話には関係ない」

 きっぱり言い放った私に視線を向けたまま、皐月がふっと小さく笑う。

「だから、そういうこと言ってくれるから、甘えちゃうんだって」

 私はむすっとして口をへの字に曲げる。そんなことを言っても、どうしようもないではないか。

 皐月は再び視線を手元に戻すと、小さな溜息と共に口を開いた。

「本当はさ。透子のこと友達として大事に思うんだったら、俺から突き放すべきだって、ずっと頭では分かってたんだ。俺は、少なくともあの人みたいにはもう、誰かを好きになったりはしない自信があったから」

 コップの中身を見ながら、皐月は言った。けれどその目で見ているものは、コップでもその中身でもない。小さく項垂れるように顔を伏せた皐月が今何を見ているか、ありありと分かって、私は黙って奥歯を噛み締めた。

 知っているから。皐月がどれだけの思いで、彼女を好きだったか。そんな自分を、皐月がどれほど責めて、苦しんでいたかも。………ずっと、苦しんでいることも。

 それがずっと、私には一番辛かった。どうしてあげることも出来ない自分が、悔しくて惨めで、腹立たしかった。今だって。

 私は結局、皐月に何も、

「でもさ」

 私の思考を断ち切るように、皐月が口を動かす。私は歯を食いしばって、じっとその目を見ていた。

「気がついたらいつも透子が傍にいて、何かあるたびに一緒に悩んだり笑ったりしてて、なんか、それがいつのまにか当たり前に俺の中でなっていて。当たり前になり過ぎたのを言い訳に、気づかないふりしていた」 

 目頭が熱い。

 泣きたくなんか、これっぽっちもないのに、胸が詰まって瞬きも上手に出来ない。

「勝手な話だけどさ。透子だけは絶対、何があっても変わらないでずっとそこにいてくれるような気がしていたんだ。人の気持ちも人生も明日にはどうなるか分からないって、それこそ骨身にしみて知っているくせにね」

 言いながら皐月がまた、自嘲の笑いを漏らす。さっきよりずっと強い自嘲の色。自分を蔑んで、それを誤魔化す時の皐月の独特の卑屈な笑い方。

 その顔は嫌だ。心底そう思った。

 必死に奥歯を噛み締めても、勝手にじわりと涙が滲んでくる。胸が塞がったみたいに、息が苦しい。

 出口がない後悔はもう、するのも、させるのも嫌だ。皐月は、のほほんと暢気な顔で笑っていてくれないと、やっぱり駄目だ。こんな卑屈な、自分を蔑む笑い方は許さない。だって、私が悔しくて、辛くて泣いてしまう。

 ああ、そうだ。どうしたって、私は皐月が好きなのだ。

 多分、皐月以上に、私は皐月を愛してしまっている。

 

「でも透子、ここ数ヶ月来なかっただろう、ぱったりと」

 皐月がいきなりこちらを向く。私は慌てて、濡れた睫を指で拭った。

「仕事が忙しかったのよ。二学期は文化祭もあるし、色々公募展もあるし、体育祭も…」

 我ながら、嘘つきな口だ。どんなに仕事が忙しい時でも、これまで一ヶ月だって会いに来る間隔を空けたことなどなかったくせに。

 皐月は私の嘘を見抜いているのかいないのか、いつもののんびりした口調に戻って頷く。

「うん。だから、俺も色々考えた」

「色々?」

「色々。これまでのこととか、これからのこととか」

「これから?」

「これから」

「誰の?」

「俺と透子の」

 ゆっくりと、でも、はっきりと皐月が言い切る。

 その響きが耳に心地よすぎて、くらくらする。せっかく引っ込んだ涙まで、また滲みそうになってくる。

「今日のことも、一杯考えた。どういうふうに言ったらいいかなとか、どうやってきっかけ作るかなとか、どういう口実で透子呼び出すかなとか。まあ他にも色々」

 見つめる私の先で、皐月はちょっと首を竦めた。少し照れたように笑う鼻に皺が寄る。

「一杯考えて思いついたのが、これっていうのもあれなんだけど」

「え?」

 皐月の視線を辿って、私はぽかんとした。

 そこにあるのは、いつのまにか三分の二以上中身の減ったお酒の瓶。私の好きな『綾杉』の純米清酒。

「貰い物、なんでしょう?」

 窺がうように皐月を見る。皐月は私の視線を受けて返しながら、しれっと答えた。

「二千六百円。何なら、領収書見る?」

「馬鹿じゃないの」

 予想外だっただけに、思ったことを、ついそのまま口に出してしまった。

 自分のことは完璧棚に上げたその発言に、皐月が半目になって横目で見てくる。私は慌てて取り繕う。

「だって、今まで特に何もなくても、普通に呼んだり来たりしてたじゃない。何を今更」

「まあ、そうなんだけどさ。いざ関係変えようと思ったら、なんか、妙に意識するっていうか。何か口実がないと呼ぶに呼べなかったんだよ、緊張して」

「……馬鹿じゃないの」

 もう一度呟く。声に滲んだ嬉しさは、隠しようもない。胸が息苦しいほど熱いのに、口元がどうしようもなくにやけていく。出来ることなら、今この時の喜びに、永遠に酔い痴れていたいくらいだ。

 にやける顔を引き締めようとする傍から、頬がだらしなく緩んでキリがない。一人舞い上がっている私を他所に、皐月はテーブルに肘を着くと、唐突に頭を抱えこんで下を向いた。

「だから正直、かなり焦った」

「え?」

「来るなり、透子、指輪見せてくるからさ」

「気づいてたの?」

「気が付かないわけないだろう。あんな、これ見よがしに見せ付けといて」

 腕の間から、拗ねたような目で皐月が私を睨む。

 私は、開いた口が塞がらないとはこのことかというくらいに、本気で唖然とした。けれどそれも数秒。

 ぷすぷすと怒りの導火線が燻っていく音が、どこかで聞こえた気がした。

「だったらもっと早くに、リアクションしなさいよ! 何なの、あんた。ほんっと信じられない」

 口を尖らせた私に、皐月もむっとしたように顔を上げて、声を尖らせる。

「出来るわけないだろう! 自分のだって完全に思ってた相手が、久しぶりに会ったら、なんかいかにもって指輪してるんだよ? それなのに、口を開けば普段通りで、めっちゃ普通に飯食って酒飲んでるし、かと思ったら急に意味深に口ごもったりするし。正直怖くてトイレに逃げこもうかと思ったよ、俺は」

「逃げ…。あのねえ。聞けばいいでしょう? 自分のって思っているなら尚更、最初に気づいた時にそれどうしたくらい聞きなさいよ。結婚するのなんて直球で聞くくらいなら、それくらい簡単でしょうが」

 剥れて、私は、ぷいと皐月から顔を逸らした。コップに残っていたお酒を一気に飲む。あの瞬間、私がどれだけショックだったと思っているのか。ふがいないのはお互い様だと分かってはいるが、腹が立つものは仕方ない。

「そういえば本当にどうしたの、それ」

 失敗したと気づいたのは、皐月のその問いに顔を向けた後だった。

 皐月はまじまじと私の左手、正確に言うと指輪を見ていた。

「今更聞かなくていい」

 迂闊にもたじろぎそうになったのを虚勢に隠して、私は左手をテーブルの上から炬燵の中へ持って行こうとした。

 が、しかしそれは、皐月によって素早く阻まれた。

「自分で買ったの?」

 がっつりと私の左手首を掴んで、皐月が言う。その目が詰問するように、指輪から私の顔へと移動する。

「どうでもいいでしょ、そんなこと」

 頼むから少しくらい空気を読め馬鹿。心の中で切実に悪態を吐きながら、私は答えをはぐらかす。そのままするりと自分のほうへ腕を抜こうとするも、皐月がしつこく手首を離さないため無理だった。そんなに私に恥をかかせたいのだろうか、この男は。

「どうでもよくもない」

「何でよ」

 半ば不貞腐れて私は皐月を見やった。皐月はじっと私を見た後、少しだけ目をずらして、不満げにぼそりと口を動かした。

「他の男から貰ったのだったら、やっぱりちょっといい気しないし」

「え」

 思わず目が丸くなる。半分不貞腐れていたのも忘れて、私は皐月を覗き込んだ。

 皐月は私の目から逃げるように微妙に顔をそらす。私はその顔を更に追って、意図的に合わせないようにする目を覗く。

「ちょっと?」

 やや首を傾げる形で目を見て尋ねれば、

「ちょっと」

 と、ちらりとだけこちらを見た皐月がむっつりした表情で、ぼそぼそ言う。

 その下唇が、ほんの少し捲れている。私はこみ上げてくる笑いなんだか嬉しさなんだかを噛み殺して、肩を沈ませてみせる。

「ちょっとなんだ」

 わざとらしいしょげた声で、わざとらしく項垂れて、俯くようにそう言えば、皐月がまたちらりと私を見たのが分かった。軽く睨むような不貞た目つき。戸惑う口元。見ずとも分かる。

「………かなりちょっと」

「なにそれ」

 少しの間の後、観念したように皐月がそう言って、私はたまらず吹き出した。皐月が小憎らしそうに睨んでくるのもかまわず笑った。

 不必要な焼餅をやいて悔しげに照れている皐月が可笑しくて、それ以上に嬉しくて、笑いが止まらない。だって、これが笑わずにいられようか。

 いつどの瞬間に初めて皐月を好きだと思ったかなんてことは、私はもう覚えていない。けれど、その時にはもう皐月の中には彼女がいて、彼女とお兄さんの間で、皐月は光と影に囚われていた。それに初めて気付いた時から私は、例えるならば、自分の心という袋小路にはまってしまって、ずっと未来への出口を見つけられないでいた。

 皐月はいつだって、皐月の全部で違うほうを向いていて、すぐ傍にいる私に気づこうともしなかったから。

 そして、あの日を境にそれはもう永遠になったと思っていたから。

 どんなに強がってみても、結局は辛くて、寂しくて、苦しくて。亡き人に嫉妬して、その醜さに自分を嫌悪して、惨めさに何度も心が折れそうになった。縋る場所もなく泣いて、皐月を恨んだりもした。自暴自棄になりかけたこともあった。それでもずっと好きだった。自分でも呆れるくらい、ずっと、皐月だけを好きだった。

 その皐月が、やっと振り向いて私を見てくれたのだ。しかも、嫉妬までしてくれている。

 これで笑わずにいられようか。母の指輪を借りただけというのは、当分内緒にしておこう。

 

 しつこく笑いを止めない私に、諦めたのか呆れたのか、皐月がふと目元を柔らかくする。細めた目のその目尻に寄る小さな皺。穏やかに綻ぶ口元。あの嫌な卑屈な笑い方じゃない、私が好きな、私の皐月のおっとりとした優しい笑い顔。

 やっと手に入れた。そう、強く思った。

 いつも通りののんびりした声で、皐月がのほほんとした顔で私を見る。

「で、今日どうする? 泊まっていく? ちょうどよく、真生くんはいないんだけど」

 それも計算のうちだったかと改めて知って、私はまた少し笑った。その顔のまま、空のコップを皐月に突き出す。

「私が知りたいことを私が分かるように皐月が教えられたら、泊まってあげてもいい」

「……俺に分かる範囲でお願いします」

 出されたコップに素直にお酌をしてくれながら、皐月が言う。

 とぷとぷといい音を立てて、お酒が満たされていくコップ。私のために皐月が用意したお酒の瓶。真生が作ってくれた料理の数々。その中にある私の好物の筑前煮。つけっぱなしのテレビから流れてくる明るい喧騒。私を見守る皐月の顔。今この時にここに在る全部を忘れないように心に噛み締めて、私は言った。

「真生以外で、皐月が今この瞬間、最も愛している人は誰?」

 私を見たまま皐月の目が一瞬大きくなる。そして私と目を合わせたまま、またゆっくりと、細く線のようになっていく。

 目尻に寄る小さな皺も、照れを隠すように苦笑するその鼻に寄せた皺も、瞬きする間も惜しいほど、全部が愛しい。

「それ、今更聞く?」

 今更でも何でも。

 やっと手に入れたのだ。やっと。

 

 あの頃の皐月が描いていた未来。そこには多分、私の居場所はなかった。けれど、あの頃の私が描いていた未来には、既に皐月がいた。

 あの日を境にいろんなことが形を変えてしまって、私はそれをどうすることも出来ずに、今日まで来てしまったけれど。

 やっと手に入れることが出来た。

 皐月が捨ててしまった未来の中の一つを、あの頃の私が望んだ、今尚、私が望むただ一つの未来を。

 皐月は恐らく一生涯、あの頃描き出した光と影を、自分の中に捨てることなく持ち続けるのだろうと思う。それでもいい。それでもいいのだ。

 もしも皐月が望むなら、私はいくらだって、新しいキャンバスを彼に与えてみせるけれど、そうでなくても、皐月が自分の中に私の居場所を小さくでも作ってくれたなら、私は皐月のキャンパスに新しい絵の具を付け足してあげることが出来るから。

 皐月がそのあまりに強い光と影に、もう囚われることがないように、私はそこに私の色を付け足して、少しずつでも、ゆっくりでも、皐月の中に新しい絵を描いてみせる。

 皐月が、叶うことならもう二度と、あんな卑屈な笑い方をしなくていい未来を、私の好きな皐月の、のほほんとした暢気な笑い顔に似合う柔らかな色合いで。

 

 そんなつもりではなかったのに、聞こえてきた言葉が擽ったくてはにかんだら、ぽろりと何かが目から零れてしまった。

 それを指で拭ってくれながら、皐月が笑う。

 何と引き換えでも守りたいと強く思う、その笑い顔。

 きっと、一緒に歩いていける。一緒に悩んだり、怒ったり、泣いたり笑ったりしながら、時を重ねて、未来へ。その向こうへ。

 そうやって、二人で描いていこう。何度となく、色を重ねて。光も影も、二人で作った色彩の中に飲み込んで。

 未来の向こうに待つ、私達のこれからを。

 ね、皐月。

 私達を彩るものは、いつだって、ここにあるから。

 

 

(了)

(2012/11)

 

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