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「美味しい~~」

 言葉と一緒に大きく息を吐いた。芳醇な香りと舌に残る濃醇な旨み。どこの誰か知らないけれど、初めてお酒を造った人は天才だ。

 いそいそと枡に零れた酒をコップに移していたら、のんびりした声が左横から飛んできた。

「ほんと酒飲みだねえ、透子は」

「ザル妖怪に言われたくないわよ」

 軽く言い返して、筑前煮の鶏を口に投げ込む。醤油の甘いこってりした味。これだけでいくらでも飲めるような気がしてくる。

 食べるのも飲むのも忙しい私とは反対に、皐月はゆったりと酒に口をつける。

「なんか久しぶりだな、透子と二人で飲むの」

「そうね」

 箸をおいてコップを手に取りながら、私は口を動かした。

「十三回忌、来られなくてごめんね」

「お盆に墓参りに来てくれたじゃん。それだけで充分すぎるほどだよ」

 口端を少し上げて言って、出し巻き卵を頬張りながら、皐月が顔をこちらに向ける。

「仕事はどう? 順調?」

「んー、相変わらず。まあ、今年は私担任持ってないし、去年よりは気が楽かな。あ、そうだ。うちの部の子がこの前の日展で入選してね」

「ああ、前に話してた子?」

「そうそう」

「へえ、おめでとう」

「いや、それがさあ。本人的には特選狙いだったから、悔しかったみたいで。泣いちゃってどうしようかと思ったわ」

 ちょっと首を竦めて、コップに口をつけた。

 皐月は酢の物の小鉢を箸で突きながら、それはまた。と、暢気な声で笑う。

「まあでも、向上心があっていいじゃない。若者はそうでないと。何か歌にあったよね、ああ、そうだ」

 そうやって目を細めるたびに、目元に寄る小さな皺。それに初めて気がついたのはいつだっただろう。昔、同じ場所で絵を描いていた頃には確かになかったのに、いつのまにか見慣れてしまった。

「未来は僕らの手の中ってさ」

 飲み込んだお酒が喉を流れて食道を燃やしていく。その熱を吐き出すように、皐月の言葉をなぞって呟いた。

「未来は僕らの手の中、か……」

 あの頃の私達の手の中にあった未来は、まるでまっさらなキャンバスのようで、けれどそこに、自分が望む色を好きに乗せることが出来ていた。

 あの頃、私達が望んだ未来は、今とどれほど違うのだろう。

 今、私達の手の中にある未来は、あの頃や今とどれだけ違っていくのだろう。

 悔しいと涙を流した生徒と私達が同じ年齢だったあの頃。皐月がその手で描いていた未来は、彼の絵同様に鮮やかな光を放ち、同様に深い影を孕んでいた。恐らくきっとこの世では、皐月以外には私しか知らない皐月の、あの頃の―――…。

「皐月」

「ん?」

 手元に沈ませた視線を上げた。意を決めての行動だったはずなのに、視線の先、そこにあるものが声を躊躇わせる。のんびりと微笑む口元。笑うと線になる細い目。変わりなく私を見る、変わったけれど変わらない皐月の顔。

 しおしおと言葉が萎んで、喉の奥に落ちていく。

「あんたのほうは、最近どうなの?」

 萎んだ言葉の代わりに違う言葉を声にして、残ったお酒を呷る。ふがいない。空になったコップの底から、そう責められている気がした。

「俺のほうは特には何も。……あ。でも、真生くんに彼女が出来た、かも」

「えっ、うそ!」

 驚きに、勢いよく顔を向けた。声も自然と大きくなる。

 皐月は空になった私のコップにお酒を注ぎながら、また目尻に皺を作った。

「はっきり聞いたわけじゃないんだけどね。よくその子と会ってるみたいだし、もしかしたらこの旅行も一緒かも」

「うっわー。真生がねー。どんな子? 会った?」

「いや。でも、真生くんが選ぶ子なら間違いないでしょう」

 誇らしげな笑みを隠すことなく、皐月が言い切る。私は感慨に小さく息を吐いて、満たされたコップに口を運ぶ。

「彼女かあ。いつのまにかもうそんな歳なのね。そりゃあ皐月もおっさんになるはずだ」

「俺がおっさんなら、透子だっておばさんだろう」

「うるさい」

 笑う皐月を半目で睨んで、舐めるように酒を飲んだ。

 本当に何もかも、いつのまにか、だ。

 テレビでは、いつのまにか終わったらしいクイズ番組の出演者がこの後の番組の宣伝をしているし、ついさっき開けたはずのお酒の瓶は、いつのまにか中身が三分の一ほど減っている。六個あった出し巻き卵は、いつのまにかひとつを残すだけ。

 この世界はそうやって、何もかもいつのまにか変化していく。

 小さかった真生が、いつのまにか大きくなって、彼女が出来るような年齢になったように。

 学生だった私が、いつのまにか教師になって、高校で美術を教えているように。

 若かった皐月が、いつのまにか目尻に皺ができるようになって、あれほどいつも絵の具塗れだったのが嘘のように、絵の具の匂い一つさせなくなったように。

 私達は誰もみんな、いつのまにか変化していく。大なり小なり、生きている限りは多分ずっと、時間がそうやって私達をいつのまにか変えていく。

 それなのに。

「真生は、弥生さんに似てきたね」

 最後の一つの出し巻き卵を遠慮なく口に投げ込んで、咀嚼しながら言葉を落とした。

 皐月は相変わらずゆったりとした動作でコップを口元に持っていきながら静かに微笑む。

「そう?」

「うん。お墓参りの時に思った。目元とか特に。小さい頃は真帆さんにそっくりだったけど」

「まあ、親子だからね」

 伏せるように目を細めた皐月の横顔を少し見て、私も手元に視線を落とした。

 何もかもが変化していくこの世界にあって、ただひとつ存在する不変。

 皐月の中の強烈な光と影。

 皐月はまるで、もう完成した絵の上から、ひたすら同じ色の絵の具を上乗せしているかのようだ。

 その頑なな姿勢は、同じ空間で同じように絵を描いていた頃の、声をかけても気づきもしないほどキャンバスの中の世界に没頭していた皐月のあの横顔と似ている。いや、似ているのでなく、何も変わっていないのだ。あの頃から、何も。

「歳、追い越しちゃったね」

「何年前の話だよ」

「…そうだね」

 こくりと頷いて、こくりとコップを傾けた。

 言葉を繋ぐために、なるべく感情を乗せずに放ったはずの言葉が、心に圧し掛かって、次の言葉を重くする。

 もう、何年も前の話。

 そう言えるほど、時間はいつのまにか、それだけ流れたというのに。いつまで。

「皐月、は」

 いつまで。

 一体、いつまで―――…。

 ぎゅっと両手でコップを握り締めた。私を見る皐月の目。その顔。その姿。私が流し重ねた時間が、確かにそこにあって。そこにあるのに。

「…手酌が、似合うね」

 届かないと怯えて、手を伸ばせない。

 昨日電話を貰ってから、いや、その前から考えて考えて、やっとの思いで決めたことは何一つ形にならないまま、私の中だけに沈殿していく。

「なにそれ」

 自分でお酌していた皐月が、鼻に皺を寄せて苦笑じみた笑いを零す。まるで、ふがいない私を笑っているかのようだ。

「透子もしかして、もう酔ったの?」

「んー」

 返事になっていない声を返して、左側にいる皐月に顔を隠すように、肘を突いて手で額を覆った。

「飲むばっかりで、ちゃんと食べないから」

「んー」

 食べられなかった。自分がしようとしていることを考えると、緊張してお昼も食べられなかった。

 好物の筑前煮も美味しいお味噌汁も、贅沢なお酒も、本当は味なんか殆ど分かっていない。味わってなんかいられないくらい、それくらい緊張しているのだ。店の前について軽く十分近く躊躇ったほど、引き戸を開けるのが怖かった。正直に言うなら、怖くて帰ろうかとさえ思った。

 だというのに、どうして。

 どうして、この男は何も気づかないで、へらへら暢気に笑っているのだ。

 何にも、自分が決めたもの以外何一つとして見ようともしないで、そのくせ、そんなのほほんとした笑い顔ひとつで、私を簡単に駄目にして。

 悔しくて仕方がない。あの生徒のように悔しいと大声で泣けたら、あんなふうに素直に感情をぶちまけられたら、どれほどすっとするだろう。

「透子?」

 真生を引き取りたいと皐月が言い出した時、周りはこぞって反対した。本当は私だって反対だった。けれど周りの人のように、理性だけで正しく反対できなかった。知っていたから。恐らくこの世では皐月と私以外は誰も知らないこと。あの頃の皐月が描いていた光と影。それは今も皐月の中に大事に隠されたまま、あの頃の鮮やかさと深さを保ったまま、ずっと変わらない。あの日から、もうずっと。

「寝てる?」

「起きてるわよ」

 顔は上げないまま答えた。息を吐いたら、熱かった。すんと鼻が鳴ったけれど、テレビのコマーシャルの音に掻き消された。

 こつんと、皐月がコップを置いた音がした。私はもう一度息を吐いて、ついていた肘を下ろして、手をテーブルに置いた。とりあえず、何か食べよう。このままでは本当に酔ってしまいそうだ。

「皐月、ちょっとそれ取って」

 一番に目に付いたほうれん草の胡麻和えを顎で指して頼む。

「ああ、はい」

 皐月は言われるがまま私に小鉢を渡してくれながら、それまでと何ら変わらない調子で口を開いた。

「透子」

「なに?」

「結婚するの?」

 光の速さで、全身の筋肉が硬直した。

 

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