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 皐月のほうを振り向くのに、首がぎぎぎと音を立てそうだった。

 皐月はただ、見ていた。私の左手に嵌められた指輪を、ただ見ていた。

 一気に動悸が激しくなる。心臓が口から飛び出さないのが不思議なくらいだ。一呼吸置いて、私は大袈裟に溜息を吐いた。

「やっと気づいたか。つうか、遅いのよ、あんた」

 見せびらかすように、左手を上げてみせる。小さなダイヤのついたプラチナリング。けして安物ではないことは、アンティークの装飾品を扱うこともある皐月なら分かるはずだ。

 けれど皐月はさっきと変わらず、大した興味もなさそうにただそれを見たまま、同じ問いを繰り返す。

「するの?」

「してほしい?」

「なんだよ、それ」

 鼻に皺を寄せて、皐月が苦笑する。あまりに平素と変わらないその態度に、私は言うべき言葉を見失う。

 心臓の動悸が苦しいのか、心臓とは違う胸の奥の何かがが苦しいのか、分からないが、とにかくひどく息が苦しい。あらゆる感情が氾濫して頭痛すらしてくる。

 大体、なんだよそれとは何だ。それは私の台詞だ大馬鹿野郎。人が考えて悩んでやっとの思いで決めて嵌めた指輪に、今の今まで気づきもしないで、やっと気づいたと思ったら、まるで、お代わり飲むと尋ねるくらいの軽さで、結婚するのなんて、暢気な顔で聞きやがって。

 ここに到達するまでの私の緊張を何だと思っているんだ、この男は。少しくらい焦ってくれてもいいじゃないか。戸惑ってくれてもいいじゃないか。腐れ縁でも何でも、ずっと傍にいた女友達が知らぬ間に婚約したかもしれないのだ。ちょっとの動揺くらい望んだって、それくらい、いいじゃないか。

 今日までの私の時間を何だと思っているのだ。今日までの私の気持ちはどうなるというのだ。本当に、どうしてくれるのだ、この馬鹿は!

「本当に好きな人は、もういない人ばかり想ってこっちを全然見てくれないから、好きじゃない人と結婚することにしたの」

 私を見る皐月のその目と口元から、笑みが消える。

 今度は私が、それをただ見つめる番だった。

 

 腹立ち紛れだった。言った言葉は殆ど早口言葉だった。子供染みた八つ当たりなのは、自分でも理解していた。けれど我慢できなかった、止められなかった。私の中で長年蓄積されてきたものが、必死に塞き止めてきたものが、一気に溢れかえって激流と化していた。

 テレビから流れてくる明るい喋り声や笑い声が、やたら非現実的に思えた。どっと一際大きな笑い声が響いて、私と皐月の間に落ちた沈黙を僅かに揺らす。

「………って言ったら、どうする?」

 必死に感情を抑えて出した声は、格好悪いほど尻すぼみになった。

 やや間を置いて、皐月はふっと私から視線を外した。外された視線はそのままコップに注がれて、皐月の指がゆっくりコップを掴む。

「知ってたんだ」

 静かな声だった。聞き慣れた皐月ののんびりした口調。皐月は既に笑みを取り戻していた。こんな時まで笑ってみせるその余裕が、悔しくて腹立たしかった。

「何年友達やってると思ってんのよ」

「何年だっけ?」

「知らない」

 投げやりに言い捨てて、私もコップを握った。

 何も知らないでいられたら、私は本当にどれほど幸せだっただろうか。

 出来ることなら、知りたくなかった。知らなければ、私はきっともっと楽な気持ちで、皐月の傍にいられた。もっとずっと楽な気持ちで、皐月を見ていられた。

 けれど、そんなことを幾ら思っても今更だ。まだ互いに制服を着ていたあの頃、私は気づいて、そして知ってしまったのだから。

 それからずっと知っていた。皐月への私の恋心も。兄の弥生さんに対する皐月の愛情も。その弥生さんの傍らでいつも笑っていた真帆さんに対する皐月の、狂おしいほどの恋着も。全部ずっと、知っていた。

 もしも。

 もしも、あの事故が起こらなければ。あの頃の未来が止まることなく続いていたなら、私はもっと早い時期に、皐月に言えたかもしれない。私を見て、と。真帆さんを忘れて私を好きになってと、望むまま皐月にぶつけることが出来たかもしれない。

 けれど、あの頃の未来は唐突に失われてしまった。皐月はあの日、彼らを失くしたとの一緒に、自分の心の中にあったすべてのキャンバスを捨ててしまった。たったひとつを除いて。

 小さな真生を膝に乗せ、二つの遺影に向かい、泣くことも忘れて放心したようにただ座っていたあの日の皐月に、私が何を言えただろう。

 あの日よりずっと前の、私が知っている在りし日の弥生さんと真帆さんと皐月の姿。私が皐月に出会う前から三人の関係は始まっていて、だから、三人の間にあった出来事を正確には私は知らない。けれど。

 あの頃の皐月が、キャンバスに描き出していた強烈な光と影。

 あれは間違いなく、皐月がその目で見、心に感じていたもの。

 けして叶わない、叶ってはいけない恋の、虚しさや激しさ、恋しさ、愛しさ、辛さ、疚しさ、そのすべてに苦悩する皐月、そのものだった。

 それを知っていた私に、何が言えたというのだろう。

 言えなかった。何も言えなかった。写真の中の彼らはもう何の熱も伝えないのに、残った思い出は火傷のように消えてくれなくて。

 何も言えないまま、私は今日まで来てしまった。何も言えないまま今日まで、気持ちだけを引きずってしまった。

 皐月だけじゃない。あの日、未来というキャンバスに夢を描くことをやめてしまったのは、私も同じなのだ。

 それでも、私はどうしても、皐月に私を見て欲しかった。

 今年の夏に皐月と真生と一緒にお墓に参った時、目を閉じて手を合わせる真生を見ていた皐月を見て、心の底から思った。いい加減にしてくれと。

 いつまで弥生さんへの懺悔を続ければ気が済むの。いつまで真帆さんを想い続ける気なの。一体いつまで私に気づかないでいるの。

 噛み付きたいくらいの衝動で、強くそう思った。

 だから暫く顔を出さなかった。十三回忌の法事も、仕事を理由に出なかった。

 そうやって距離を置いて、ずっと考えていた。皐月がどうしたら私に気づいてくれるのか。どうしたら、皐月の目に私を映すことが出来るのか。そればかりを。

 好きだなんて素直に言えるだけの心の強さがあれば、最初からこんな苦労はしていない。臆病者なりに一生懸命ずっとずっと考えて、思いついたのが指輪だった。左手の薬指に嵌める指輪の意味を知らない人なんていないはずだ。私は職業柄、普段からあまりそういう装飾品をつけない。その私が左手薬指に、いかにもそれっぽい指輪をしていれば、いくら皐月だって、気づいて何かしら思うだろう。思ってくれるだろう。そう思った。

 けれど、久しぶりに皐月から呼び出しの電話が来て、いざ実行となると、容易くはいかなかった。正直なところ、やっぱりやめようと今日一日だけで百回くらいは思った。皐月の反応が怖くて。おめでとうと、おっとりしたいつもの笑みで放たれるその一言で、私達の関係が終わってしまうのが怖くて、それくらいなら今のまま腐れ縁のほうがいいじゃないかという考えまで浮かんできて、何度も頭を横にぶんぶん振っては、生徒達に不審がられた。

 なんとまあ、ふがいのない。しかも結果がこれでは、あまりに無様過ぎて目も当てられない。

「透子」

 がぶりとコップの中身を呷った傍から、皐月が私の名を呼ぶ。半ば自棄で、私はその呼びかけに真っ直ぐ顔を向けた。

 どうせ、何も分かっていないのだ、この男は。私がどんな思いで今ここにいるかも、どんな思いで今まで傍にいたかも、何にも。それでも何か言いたいことがあるというなら、聞いてやろう。聞いて言い返して言い負かしてやる。

 誰が泣いてやるもんか。ごめんでもおめでとうでも、好きに言えばいい。泣いてなんかやらない。もう皐月のためになんか、涙一粒だって流してやらない。

 よほど気迫に満ちていたのか、私を見て皐月は一瞬躊躇うように目を彷徨わせた。そして、やっぱり、いつもののんびりした口調で言った。

「今日、どうする? 泊まっていく?」

 ガクっと、肘がテーブルから落ちた。比喩ではなく、本当に落ちた。

「は?」

 どういう神経をしているのだ、この男は。正気を疑う。

 別に泊まる発言が、どうこういうわけじゃない。そもそも私がここに泊まるのは、珍しいことではないからだ。真生が小さかった頃はしょっちゅう泊まっていたし、大きくなってからも、私が酔っ払ってそのまま寝たりして泊まることも少なくなくて、実際、この家には私専用の布団があるくらいだ。

 だから、正気を疑うのはその発言ではなく。このタイミングで、それを尋ねるというその神経だ。

 どう好意的に考えても、話を逸らそうとしているとしか思えない。

 私はこんなにも必死で、殆ど捨て身の覚悟だというのに。あんまり過ぎて、すぐには声も出ない。

「……あんたね。この状況で、何か他に言うことないの?」

 呆れと怒りの眼差しを真っ向から受けているというのに、皐月は相も変わらず暢気な顔で、しかも、悠長に手酌でお酒なんか飲もうとしている。馬鹿にするにも限度があるだろう。ふつふつとお腹の底から怒りが湧き上がる。本当に、私を何だと思っているのだ、この男は。

「何か言うことが他にあるでしょう、他に何か! 仮にも私、結婚するって言ってんのよ? 分かってんの、あんた!」

 声を荒げて、思いっきり凄んだ。もはや感情を抑えようなんて気は微塵もない。

 しかしながら、激昂の最中にある私を見ても、皐月は怯む様子ひとつ見せなかった。自分でお酌した酒に口をつけながら、あっけらかんと言葉を返す。

「だって、しないだろ?」

「え?」

「好きな男がいるのに、違うやつと結婚なんて透子はしない。そういう、人も自分も傷つくだけって最初から分かりきっている馬鹿なことは、透子はしない」

 まるで言って聞かすようにそう言って、皐月が顔を上げる。その目に私が見えた。

「だから問題ない。大丈夫」

 穏やかに断言して、皐月は笑う。のほほんとした暢気な顔。細い目を更に細めたそこに、私が映っている。

 ずるい。心底思った。

「何が、どう大丈夫だっていうのよ。意味分からない」

 芯を抜かれたように、ぐにゃぐにゃと力が抜けていく。体からも、心もからも。

 私を見る皐月の目。その顔。その姿。私の重ねた時間。私が後生大事にしてきたもの。

「あんたなんか何も分かってないくせに。何も、何にも知らないくせに」

 何度も何度も、捨てようと思った。でもどうしても、捨て切れなかった。

 そうやってどれほどの夜に苦悩して、どれほどの朝を一人諦観の中で迎えたか。

「私だってね、」

「知ってたよ」

 上擦りかけた私の声を遮るように、皐月がさらりと言う。

「知ってたよ、俺も。ずっと、透子が誰を好きか」

 瞬間、呼吸を忘れた。

 そんな私を余所に、皐月は片手に持ったコップの中を覗き込むように見て続ける。

「知っていて、ずっと甘えていたんだ」

 

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