肘で自転車のバランスを取りつつ、笹に吊るされた沢山の願い事をにこにこと一人読むフィーを、何とはなしに眺める。
本来の色じゃない黒い長い髪。大きな青い目。長い睫毛。ふっくらとしたほっぺた。綺麗な鼻。動く唇。その唇が、願いを読み上げ、緩い弧を描いて微笑む。
俺は何をするわけでもなく、ただぼけっとそれを眺めていた。
そして、ふと思った。
俺はいつからこんなに、フィーを見るようになったのだろう。
最初の頃は、フィーの方を見るのが正直怖かった。あの目のせい…というか、あの罪悪感のせいで、まともに顔を向けることすら出来なかった。
それがいつのまにか気がつけば、フィーが指輪の外にいる時はいつも、何とはなしに、フィーを視界の真ん中に収めるようになった。フィーがこっちを向いている時も向いていない時も関係なく、気が付けば、何となく見ている。
目を直視しない限り、あの罪悪感が襲ってこないと分かったからだろうか。実際、目を離してその隙にフィーが何かしでかしたら大変だから、見ているに越したことはないのだけど。それにしても、最近じゃ癖みたいに、それこそいつもフィーを見ている気がする。
「愛らしいな。まこと、幼きものの願いというのは」
ひとしきり短冊を読み終えたらしいフィーが、浮かべた笑みもそのままに振り向く。
「そだな」
その青い目は勿論のこと、笑いかけてくるその顔も何故か何となく直視できずに、俺はあたかも七夕飾りを見ていたような振りを装って、短く頷いて返した。そうしながら、自転車のハンドルを持ち直して角度を変え、帰りを促す。
一通り満足したのだろう、フィーは文句を言うことなく素直にそれに従った。自転車を押す俺の横について歩きながら、いまだ楽しげに笑みを浮かべた口から質問を投げて寄越す。
「お主はせぬのか?」
「え、七夕を? しないよ」
「何故だ?」
「何故って、あれは小さい子がするものであって」
「幼子しか、してはならぬものなのか?」
きょとんとして訊いてくるフィーに、一瞬返答に戸惑う。
「いや、別にいけないことはないけど。でも、しない人が殆どじゃないかな」
少なくとも俺の周りで、七夕をしている人はいない。フィーは俺の返事に、そうか。と、つまらなそうに呟く。その声色に、少しだけ横目を向けた。
「なにお前、したいの? 七夕」
シシィみたいに考えなしの無鉄砲ではないけども、フィーも結構好奇心が強いほうだ。まあ、その好奇心の殆どを食に費やしているような感じだけど。でも初めて知った七夕という人間の行事に、多少好奇心を擽られたとしてもおかしくはない。
「お前がしたいならしてもいいけど。あー、でも笹とかどこに行けばあるのか分かんね。つうか、あれって売ってんのかな」
思ったまま口に出せば、フィーは少し可笑しそうに笑いながら、首を振った。
「そうではない。ただ、お主の願い事を知っておきたかっただけだ」
「俺の願い事?」
思ってもいなかった返答に、今度は反対に俺がきょとんとしてしまった。フィーはそんな俺に構うことなく、笑って前を向いたまま、さっぱりとした声で言う。
「いつかのためにな」
「いつか?」
「いつか、私の念願が成就した時の話だ。レネが見つかった暁には、お主には礼をせねばならぬゆえ」
はっきりと言った声は淀みなく、俺を見上げた笑顔は涼しげで。
何一つ疑うことなく、望む未来を純粋に信じきっているフィーがそこにいた。
「何がいい、真生? お主の願いは何だ?」
まるで、明日の朝ご飯は何だと尋ねるような気楽さで、フィーが続けて言う。
その屈託のない眼差しに、鉛の塊を幾つも飲み込んだかのように、喉のあたりがずっしりと重くなっていく。
「……俺は、別にいいよ。礼とかいらない」
やや間があいてしまったものの、それでも何とか答えた声は、ぎこちないほど硬かった。知らず知らずのうちに微妙に俯いてしまっていた顔を、無理やり上げて前を向く。
「遠慮するな。子供が遠慮しては可愛くないぞ」
笑ってフィーが、俺の顔を覗き込むように見る。それをあえて無視して、路地の少し先だけを見つめて歩く。
「可愛くなくて結構です。つうか、誰が子供だよ」
「お主がだ」
わざとぶすくれた声を出せば、からかうような声がすぐ返ってきた。それを良しとして、ひたすら前だけを見て足を動かす。フィーもまた、顔を前に向けなおしたのが気配で分かった。
「冗談はさておき、願いは考えておけ。彦星と織姫とやらは一年ぶりに会えた喜びに、願いを叶えるというのだろう? 私とレネなど八百年ぶりだぞ? それを、お主の願いくらい、叶えてやらずにどうするというのだ」
「いや、そこ張り合わなくていいから」
突っ込む俺を軽く無視してフィーが、笑い声からやや真面目な声にかえて、話を続ける。
「とは言え、私にも実現不可能な願いもある。人間には一番多い願いなのだが、残念ながら私は、他者の心を操ることは出来ぬ。体なら操れるが。それと、不老不死。老いを多少緩めることくらいなら可能だが、生死あるものを不老不死することは、大いなるもの以外誰にも許されぬ権利だ。それと同様に、死んだものを生き返らせることも叶わぬ。それ以外の願いならば、大体のことは叶えてやれるぞ。何がいい? 金か? 才能か? それとも美貌か?」
「美貌って。どうすんだよ、そんなもん。俺、男だぞ」
呆れて思わず口を挟めば、フィーがすかさず畳み掛けてくる。
「では、やっぱり金か?」
「やっぱりって何だよ。失礼なやつだな」
「だってお主、金がない金がないといつも言うておるし」
「誰のせいでいつも金がないと思ってんだ、この金食い精霊が」
「だからこそだ。その侘びとか言うか、礼にだな。お主を億万長者に…」
「あのな、フィー」
あまり聞いていたくなかった。だからしつこく続けるフィーの声を、言葉と視線で遮った。
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