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【 11 】 - 2

 

「あの娘?」

 その言葉に、今度は俺が怪訝な顔つきになる。だけど、フィーはこっちを見ることなく、前を向いたまま、突然声を大きくした。

「彩乃ちゃん!」

 叫ぶように呼んで、笑顔で手をぶんぶん振る。その行動にやや驚いて、フィーの視線の先に目をやれば、今まさに階段を降りようとしていた人が、声に振り向いたところだった。その顔を見て、俺もようやく、その存在に気づく。

「フィーちゃん。あ、真生くん」

 彩乃ちゃんも、後方の俺達に気づいたらしい。振り向いた顔に笑みを浮かべて、フィーに応えて手を振って返す。俺がそれに手を振り返している間に、フィーは、たたたっと軽い足音を響かせて、俺の横から彩乃ちゃんのほうへと走り寄っていた。

「昨日といい今日といい、偶然とはいえ、よく会うね。どこかにお出かけ?」

 駆け寄ったフィーに笑顔で訊かれ、彩乃ちゃんも笑顔で返す。

「うん、今帰りなの。それにしても、本当すっごい偶然。同じ電車だったんだ。……あれ、でも真生くん達、おうち、こっちのほうだっけ? 芝塚のほうって言ってなかった?」

「うん。そうなんだけど、ちょっと孝の見舞いに……」

 フィーに少し遅れて、俺も会話の輪に加わりながら、ふと、彩乃ちゃんの言葉に思考が止まった。

 

 ( 去年の春、偶然駅で会うまで全然連絡とかもしてなかったし。それからも時々駅で会うくらいしか接点なかったんだけど  )

 ( なんか病気だったらしくて )

 ( じゃあ、彩乃ちゃんも千代原駅なんだ? 俺もだよ )

 ( 孝くんも? じゃあ、朝とか普通に駅ですれ違ってたかもね )

 

 音が出るくらい勢いよく、ホームを振り返る。

 雨に濡れたホームのコンクリート。ベンチ。自販機。時計。どこの駅でも大差ないその造り。だけど。

 考えてみれば、そうだ。孝が階段から落ちた駅は、ここのはずだ。孝の家に一番近い駅。孝がいつも利用する駅。

 間違いない。ここだ。

 俺が由希ちゃんの記憶の中で見た場所は、由希ちゃんが孝を見ていた駅は、ここだ。ここで、由希ちゃんは孝に出会って、ここで、いつも孝のことを――――。

 もうこの場所にいるはずもない人の姿を探して、思わず目が彷徨う。

 俺の唐突な行動に、彩乃ちゃんが後ろから戸惑ったような声を出す。

「真生くん? どうかしたの?」

「…彩乃ちゃん、こないだ言ってた友達って、もしかして……」

「え?」

「……いや、なんでもない。ごめん」

 確信に近い思いがあったけど、それを説明する術がないことに気づいて、結局、曖昧に口を閉ざした。

 

 ―――由希ちゃん。夢だったんじゃないかなんて、一瞬でも思ってごめん。君は、夢なんかじゃない。

 確かに存在していたんだ。俺達と同じように、ここで息をして、色んなことを考えたり思ったりしていた。

 ごめん。ごめん、由希ちゃん。

 もう夢だったんじゃないかなんて、思ったりしない。

 誰かに話すことはなくても、君のこと、君の思い、全部ずっと、俺がずっと、忘れずにいるから。

 

 もう届かない人への思いに、ぐっと胸の奥が締まった。

 のろのろと顔を、フィーと彩乃ちゃんのほうに戻せば、彩乃ちゃんは少し心配そうな顔で小首を傾げて、俺を見ていた。フィーは、見透かすような目でちらりと俺を見た後、素知らぬ顔を彩乃ちゃんに向けた。

「彩乃ちゃん、一緒に孝お兄ちゃんのところ、行かない?」

「え」

 フィーの提案に、彩乃ちゃんが目をそっちに向ける。

「フィー。人には都合ってもんが……」

「都合悪い?」

 横から口を挟んだ俺の言葉を遮って、フィーが彩乃ちゃんを見ながら、半ば強請るように首を傾げる。彩乃ちゃんは笑って、軽く首を横に振った。

「ううん。別に都合悪いことなんてないけど。でも、突然行って迷惑じゃないかな」

 言葉尻を俺に向けるように言って、彩乃ちゃんがこっちに顔を向ける。俺は軽く首を竦めて、思ったまま返した。

「彩乃ちゃんさえ良ければ、孝は全然迷惑じゃないと思うよ。むしろ、女の子がいたほうが喜ぶと思うけど」

 アパートを出る前にメールを確認したら、昨日昏睡状態だったとは思えないほど、いつも通りの孝からのメールが着ていた。一応、心配かけてごめんと始めにあったけど、内容の殆どが、入院が長引くことへの不満と、傷が痛いことへの文句と、深夜アニメが視聴出来ないことへの嘆きだった。あの調子なら、何の問題もない。

 本当は、理沙ちゃんを連れて行ったほうが喜ぶだろうけど、彩乃ちゃんだって、わざわざ来てくれたという事実だけで、孝は充分喜ぶだろう。

 理沙ちゃんのことを考え、浮かんだ由希ちゃんの顔に、ちくりと胸が痛む。誰が悪いわけでもない。分かっていながらも、つい目を俯かせた俺の横で、フィーが物知り顔で口を開く。

「それに、真生もね。真生ってば、普段からぼうっとしてるけど、今日は更に輪を掛けてぼうっとしてて、危なっかしいの。彩乃ちゃんがいてくれたほうが、しゃきっとすると思うんだ」

「はっ?」

 思わず頓狂な声を上げて、フィーを見る。なんでいきなり、そこで俺の話になるんだ。というか、俺の状態に彩乃ちゃんは関係ないだろう。

 フィーは、そんな俺の視線を受け流して、大袈裟に肩を竦めた。

「さっきだって、電車ここで降りるって自分で言ったくせに、ぼうっとしてて降り損なうところだったんだから」

「あれは…」

 呆れて困ったような口ぶりで、彩乃ちゃんに訴えるように話すフィーに横から口を挟むも、綺麗に無視される。

「こんな美人が横にいるのに、ぼうっとするなんて失礼な話だけど、彩乃ちゃんがいてくれたら真生も、ぼうっとして傘を電車に忘れてきたりしなくて済むと思うの」

「えっ…、あ!」

 何となく棘を含んでいる口調もさながら、その口から出た傘という単語に、はっとして見れば、確かに両手が空っぽだった。ずっと持っていたつもりだったのに、どこで手放したんだろう。

 ホームの屋根の隙間に見える曇天からは、まだまだ強い雨が降り注いでいる。俄かに焦り顔になった俺を横目で見て、フィーが片手を見せびらかすように上げた。そこには、俺が持っていたはずの傘が、ぶらぶらと揺れていた。

「え、いつのまに」

「感謝しろ」

 驚く俺に、フィーが澄まして言ってのける。だけど、ありがとうと素直に感謝して、傘を受けとろうとしたら、拒否された。

「今日の真生は、おかしい。持たせていたら、また失くす」

「失くさないよ。いいから、よこせ。お前が持ってたほうが、珍しがって振り回して壊しそうだ」

「私を子供と一緒にするでない。置き忘れてきたくせに、偉そうに」

「電車くらいで、はしゃいでた奴が何言ってんだか。いいから、ほら。どうせ、さす時俺が持つんだから」

 言って、むうっと不満げに口をへの字にするフィーから、ほぼ無理やり傘を取り上げる。その顔に、ただ単に傘を持って歩きたかっただけだなと分かったけど、どうせ改札を出たら俺が持つのだから同じことだ。

 それでも未練がましく不満げな顔をするフィーに、雨が上がったら持たせてやるからと言いかけた時、それより早く、くすっと、小さな笑い声が響いた。

 見れば、それまで黙って俺達のやり取りを見ていた彩乃ちゃんが、口元に手をやって、くすくすと可笑しそうに笑っていた。その笑い顔に、フィーが不満顔をやめて、人懐っこい声で明るく言う。

「ね? 彩乃ちゃんが一緒に行ってくれたら、私も余計な面倒見なくて助かるし、真生も孝お兄ちゃんも、喜ぶと思うの」

 何が、「ね」なのか。その変わり身の早さに呆れて半目になる俺を余所に、彩乃ちゃんはくすくす笑いから、そのままにっこりと頬を上げて笑う。

「じゃあ、折角だし、一緒させてもらおうかな。いい? 真生くん」

「ああ、うん。勿論」

 八重歯を覗かせて笑うその可愛らしい笑顔につられて、笑って頷く。

「やった!」

 そう小さく叫んでフィーも嬉しそうに、にこにこと笑う。だけど、彩乃ちゃんにその嬉しそうな笑顔を向ける一瞬前に、フィーが俺に見せた、したり顔のにやにや笑いは、思わず頬が引きつるほど、小生意気だった。

 

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