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【 10 】 - 2

 

 脇を横切った車のタイヤが、音を立てて、水溜りの水を跳ね上げた。かろうじてその水飛沫を避けながら、せめて住宅街の路地くらいスピード落とせよと内心思う。

 出かける用意を済ませ、外に出たら、雨は思っていたよりも本降りだった。土砂降りとまではいかないけども、大粒の雨粒が休みなく、アスファルトや傘の表面を勢いよく叩き付けている。おかげで、アパートから出て数十分も経たないうちに、靴やズボンの裾がぐっしょり濡れてしまった。とはいえ、不快感はあっても、冷たさはない。春が近いのだろう。気温に応じて、雨の温度もどことなく生温い。

 当面雨が上がりそうもない暗い空を少し見上げ、隣を歩くフィーに目をやる。

 雨がこんなに降っているというのに、フィーは雨粒に目を細めることも、足元の水溜りと戯れることもなく、さっきからずっと難しい顔をしたまま、前を向いて黙々と歩いている。一言も喋らなければ、お面のように表情を変えない。

 アパートでシシィと別れてからこっち、ずっとこうだ。何か重要なことを抱え込んだ人みたいに、ひどく深刻な表情で、自分の中に篭っている。そのくせ、手はしっかり俺の上着の裾を掴んでいる。アパートの玄関を一歩出てからというもの、それこそ皺がつくくらい、強く握って離さないのだ。歩きづらいし、服が皺くちゃになるから、やめてくれと言ったけど、聞こえていないかのように無視された。

 今、俺にはフィーの守護結界とシシィの守護結界が、ダブルで張ってある。よく分からないけども、フィーの結界は水と火と土に効果があって、シシィの結界は風と水と火に効果があるらしい。俺が、というより指輪が狙われるとしたら、水の姫達関係だから、水が重なっている結界は、かなり有効だと思う。そのおかげで、風呂トイレ監視付きという、甚だ恐ろしい生活からは逃れられたものの、それでフィーの不安が薄まったかというと、そういうわけにもいかないらしい。掴んで離さないこの手が、その証拠だ。

 水というのは、俺が考えていたよりずっと弱いと、今のフィーを見て初めて知った。

 力とかじゃなくて、その性質がだ。何にでも染まって、小さくてもそこに動きが生まれると、それを拒めない。動きの元が静まるまで、自分では波紋を静められない。その性質をそのまま受け継いでいるフィーは、感情を誤魔化せないというより、感情に弱すぎる。

 一度根源から腐ったために、もう無限の精気ではなくなったと昨日フィーは言っていた。なら、今もう一度、精気が腐ってしまったら、フィーはどうなってしまうのだろう。精気が腐り果て、枯れて、消滅するのだろうか――――…。

 不安がどれだけ精気に影響するのか分からないけど、万が一でもその危険があるなら、なるべくフィーを不安がらせないようにしなくちゃいけない。

 だけど、シシィにそうするみたいに、俺にも不安をぶちまけてくれたら、俺だって少しは紛らわせてやれるかもしれないのに、フィーは俺には何も言ってくれない。今だって、多分、俺に関することで何か考え込んでいるっぽいのに、難しい顔で口を閉ざしたままだ。こんなんじゃ、俺がしてやれることなんてないに等しい。

 

 知らず知らず出た重い溜め息に、横を歩きながらフィーが即座に顔をあげて、こっちを見る。

「どうした? 体に異変でもあるのか?」

「違うよ、何でもない」

 どことなく顔色さえ悪く見えるその小さな顔を見返して、心の中だけで、もう一度溜め息をつく。やっと喋ったと思ったら、これだ。何をそこまで、深刻な顔で思いつめるように、一人で考え込んでいるんだか。まあ、十中八九俺のことだろうけど。でも、シシィだって大丈夫って言ってたんだから、そこまで不安に駆られなくてもと思ってしまうのは、俺が能天気すぎるのだろうか。

 俺に変調がないことを確認したのか、フィーはまた前を向く。変わらない、重い歩調。変わらない、閉ざされた口と、離さない手。

 フィーのために、そして俺のためにも、一番いいのは、レネが見つかって、フィーがもう、俺のことを気にする必要がない環境になることだろうけど、そのレネがどこにいるのか皆目見当もつかないのだから、話にならない。本当にどこにいるんだ、レネは。

 どこにぶつけていいか分からない苛立ちに、傘の柄をぐっと握り締めたとき、上着のポケットの中で携帯が震えた。

 いつのまにマナーモードになっていたんだろう。その震えが掴んでいた手から伝わったのか、フィーが俺を見る。その視線を受けながら、携帯を取り出して、そこに表示された名前に俺は自然と足を止めた。

「もしもし? 皐月さん?」

 通話ボタンを押して、放ったその名前に、フィーが少し安心したように視線を俺から外す。俺は携帯片手に話しながら、再び足を動かした。

『当ったり~。皐月叔父さんでーす』

「当たりって。名前表示されるんだから、当たりも何もないっしょ。どうしたの、電話なんて珍しい」

『うん。真生くん、今から、孝くんの病院?』

「うん、そう。って、あれ? なんで知ってるの? 俺、孝のこと話したっけ?」

 孝が入院したのは昨日のことだ。皐月さんに話した覚えもないし、昨日から今まで話すような時間もなかった。怪訝さを声にそのまま出した俺を気にすることなく、皐月さんはいつも通り、のんびりした声を返してくる。

『真生くん、フィーちゃん隣にいるでしょう。彼女に昨日の分の報告、受け取ったって伝えてくれる?』

「昨日の分の報告?」

 その言葉に、ちらりとフィーに視線をやる。フィーもまた、ちらりとこっちを見たけど、気にする必要はないと思ったのか、またすぐ前を向いた。そして。

 まるでそれを目で確認したかのように、携帯の向こうで、皐月さんが声のトーンをいきなり変えた。

『それから、僕の契約は昨日で果たされたから、もう毎日の報告は必要ないと彼女に伝えるんだ。それが新たな暗示のきっかけになる』

「え…?」

 それまでののんびりした口調とは打って変わって、ひどく緊迫した声で言われたことの内容に思わず、足が止まりかけるも、それさえ見ているかのように、すぐにまた声が返ってくる。

『歩き続けて。止まっちゃいけない。彼女が干渉できないように結界を張ったけど、君の動きで彼女が少しでも変に思ったら、困る。彼女の力は、僕のそれを壊せてしまうから』

「は? 皐月さん、何言って」

『真生くん。よく聞いて。僕がこの電話を切れば、僕が今から話すことを君は忘れるだろう。そして、僕は町内会のくじ引きで旅行が当たって暫く留守にするという情報が、君達の記憶に植えつけられる。そうする必要があるからだ。だけど、いつか来るべき時が来たら、君はこの会話を思い出すことが出来る。僕は君に、思い出して欲しいと思ってる。だから、その時のために今、よく聞いて』

 一体、何の話をしているんだ、この人は。声は確かに皐月さんのものなのに、皐月さんじゃないみたいだ。

 訳が分からない。戸惑いで携帯を持つ手に力が入る。

「くじ引き?」

 ぎょっとして、目を見開いた。今、自分の意思とは関係なく、口が動いた。口だけじゃない。気がつけば、足も勝手に動いている。なのに、自分のものじゃないように、首が動いてくれない。俺の体に起きている異常を、隣のフィーに伝えたいのに、フィーを見ることが出来ない。

 焦る俺を宥めるように、皐月さんが声のトーンを和らげる。

『大丈夫。落ち着いて。今、君が意思とは関係ない言葉を喋ったり、自由に体が動かせないのは、僕が力でそうさせているからだ。ごめんね。でも、彼女に気づかれないためには、こうする他ないんだ。とにかく、今は落ち着いて、僕の話を聞いて欲しい』

 誰だ、この人。本当に皐月さんなのか? 力って何だ? 落ち着けって言われても、落ち着けるわけがない。どういうことなんだ、これは。どうしたって言うんだ、皐月さんは。

 ぐるぐると渦巻く答えのない疑問に、傘を叩き付ける雨の音さえ、完全に頭から遮断されていた。皐月さんの声と自分の心臓の音だけに、鼓膜が集中していく。

『いいかい? 昨日彼女が君に話したこと、ううん、昨日だけじゃない。これまでずっと、彼女が君に話してきた彼女の過去は、半分事実であって半分事実じゃない。だけど、彼女は嘘をひとつも言っていない。今の彼女にとっては、それが事実なんだ』

「うそ、当たったの? 世界旅行が?」

 俺の言葉に反応して、フィーがこっちを見上げたのが気配で分かる。気づいてくれと心底願う。だけど、俺はフィーを見られない。目配せひとつ出来ない。フィーから見れば、携帯で皐月さんと話しているいつもの俺だ。この異常な状態に気づくわけがない。

『彼女が三百年間、指輪から出てこようとしなかったのは、人間の欲に嫌気がさしたからなんかじゃない。全てを、真実を知ってしまったからだ。彼女は事の真相を知って、いつか生まれてくる君を守るために、自分を消す選択をした。彼女の選択はある意味、間違ってはいない。いかにも彼女らしい選択だと、僕は思う。だけど、捩れたものは、どんなに押さえつけても、いずれは元に戻ろうとする。捩れが大きければ大きいほど、その反動は大きくなる。僕らはそれを恐れた。因果応報だと認めても、受け入れるわけにはいかないんだ。僕らにも、守らなきゃいけないものがあるから。だから僕らは、彼女に、ある暗示を掛けた。彼女の記憶の一部を、塗り替えたんだ。来るべき時のために』

 僕らって、誰のことだ。なんで、フィーが俺を守るために消えるんだ。来るべき時って、何だ。皐月さんは、どうしたんだ。答えて、皐月さん。意味が分からない。

 心の中で必死に問いかけるも、皐月さんはやっぱりどこか緊迫した声色で、一方的に話し続ける。

『だけど、始精根と融合した影響で、その暗示が解け始めている。今、君の目から見ても、彼女は酷く不安定でしょう? 彼女は本来とても強く、そして彼女の精気は、とても貴重なものだ。だけど、そのせいで彼女は、愛した人を永遠に失った。少なくとも、暗示を掛けられる前の彼女は、そう思っていた。そして今、君を失うかもしれないという不安が、その恐怖を蘇らせつつある。暗示が弱まった証拠だ。このままじゃ本当のことを思い出す危険がある。だからもう一度、彼女に暗示を掛け直すことになった』

「へえ。すごいじゃん。何日間?」

『彼女だけじゃない。真生くん、君にも暗示がかかっている。君の場合は、生まれる前からだ。そうすることが、君のご両親の強い願いだった。だから、僕が暗示をかけた。君が、他の誰でもない君自身として、真っ直ぐ生きられるように、囚われることがないように』

「パスポートとかどうするの?」

 パスポートなんて、心の底からどうでもいい。そんなことが、訊きたいんじゃない。

 俺に暗示をかけてたって、どういうことなんだ。しかも、生まれる前からって。なんで、父さんと母さんが、なんで皐月さんが、そんなこと―――…。

『始精根の影響で君の暗示も、彼女同様に解け始めている。力の一部が戻ったのが、その兆しだ。だけど、彼女と違って、君の暗示は、ある条件さえクリアすれば、徐々に解けるように始めからしてあった。そして君は昨日、その条件をクリアした。今の君は忘れてしまっているけど、君は以前、ある人と契約を交わしている。その契約を果たすことが、条件だったんだ。勿論彼女は、その契約を知らない。でも彼女は、僕との契約に縛られていたから、君に選択権を与えるしかなかった。あの時既に、彼女の暗示が解けかかっていたことを考えると、彼女としては、力を使ってでも君に指輪を捨てさせたかっただろう。だけど、彼女は僕との契約を守った。そして君も、捨てないという選択をすることで、ある人との契約を守った。契約が果たされたことによって、君に掛けられていた暗示は、じきに解ける。君の暗示が完全に解けた時、君がどういう選択をするかは、君の自由だ』

 この人は、本当に誰なんだ? 皐月さんじゃないのか? どうして、なんで。

 契約って何だ? ある人って。力の一部って。

 頭が混乱しすぎて、何ひとつとして、まともに考えられない。一体、何の話だ。何の話をしているんだ、皐月さんは。

『この先、君は、偽りの記憶を事実として生きる彼女の傍らで、少しずつ、暗示から醒めて、真実を知っていくことになる。たった二十年しか生きていない君には、重すぎるものを君は抱えなきゃいけない。だけど、それが君の枷ではなく力になることを、僕は信じてる。たとえ不完全でも君は、レネが持ってなかったものを持っている。この会話を思い出す頃には、それが何なのか、君は知っているはずだ。だからきっと、絶対に、大丈夫。自分を信じて、名前に込められた願いどおりに、真っ直ぐ生きなさい』

 言い聞かせるようなその声。息遣いも声も、確かに皐月さんのものなのに。どうして、こんなに緊迫した口調なんだ? 皐月さんに何かあったのか? 俺が何だって言うんだ。レネと俺に何の関係があるんだ。

「店は? しばらく閉めるの?」

『真生くん、君がこの会話を思い出す頃には、もう君は僕が何か分かっているだろう。だけど、僕が何であろうと君はずっと、僕の可愛い大事な甥っ子だ。この世に偶然は、ひとつもない。必ず原因があって結果があるように、全てのことには、そうなるべくしてなる理由がある。君が僕の兄さんと義姉さんの子供として生まれてきたことも、僕が君を育てたことも、君が誰にもない力を持って生まれてきたことも、今、君の指に指輪が嵌っていて、彼女が君の隣にいることも、何もかも、理由があって、そうなっているんだ。これは僕の我が侭だけど、叶うなら、この会話を思い出す時、理由の裏にある多くの人達の思いを、少しだけでも考えてみて欲しい』

「うん、それで?」

 なんで。何も、ひとつも、話を理解出来ないのに。なのに、なんで。

 皐月さんの緊迫した口調。その中に感じる俺への変わらない愛情に、ものすごく嫌な予感がする。

『愛してるよ、真生くん。草も木も花も、空も太陽も、みんな、君を愛してる。出来ることなら、僕が守ってあげたいけど、君を守れるのは君だけだ。せめてずっと傍にいてあげたかったけど、彼女の暗示が安定するまで、僕は君達から少しの間離れなきゃいけない。辛い思いをさせて、ごめん。だけど君は、あの二人の子供だから。僕の大切な人達の子供だから。君なら、絶対に大丈夫だと僕は信じてる。君ならきっと、守れる』

「え、そんなにすぐ出発なの?」

 なんで、こんなに、嫌な予感しかしないんだ。少しの間って言ってるのに、なんでもう、会えないみたいな話し方をするんだ。これじゃまるで、もう―――…。

 いやだ。皐月さんが何だっていい。俺にとって、皐月さんは皐月さんだ。だから、お願いだから、そんな二度と会えないみたいな話し方をしないで。皐月さん。ねえ、皐月さん。

『いいかい? 僕からの伝言を君の口から彼女に伝えることが、彼女の暗示を強めるきっかけになる。前回の失敗を受けてあの人は、今度の暗示で、更に強く彼女を縛るつもりだ。彼女はもう、君の事で過度な不安は抱かないだろう。不安だけじゃなくて、本来の彼女が君に対して抱いていた大切な感情をも、彼女は失くす。君の存在が、彼女の暗示を解いてしまう最大の鍵だからだ。非道なことをしているのは、誰もが承知している。だけど、僕らにはどうしても、彼女が必要だ。そして、君も。来るべき時のために、君達二人が必要なんだ。この会話を思い出す頃には君はもう、僕らが君達にしたことの非道さが分かっているはずだ。恐らく、怒りと憎しみで、心が煮え狂っているだろうと思う。だけど、どんな感情を抱いても、君は君だ。君が君であることに意味があるんだ。そのことを忘れないで。それが来るべき時に、君の力になるはずだ』

「うん、分かった。気をつけて」

 自分の口から出た結びの台詞に、盛大に焦る。

 携帯が壊れるくらいの力で握り締めても、その向こうにいる皐月さんには届かない。引き止められない。

 こんなに嫌な予感がするのに。

『どうか、来るべき時に、この会話を思い出して。君はレネじゃない。レネと同じ道を、君は辿ってはいけない。君は、君だ。他の誰でもない』

 皐月さん。ねえ、お願い。俺の声を聞いて。行かないで。行っちゃいやだ。皐月さん。ねえ、皐月さん。

『いつだって、どこにいたって、君の幸福な未来を祈ってる。愛してるよ、真生くん。君は僕の希望だ。どうか、消えないで』

 

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