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【 08 】 - 2

 

『私が、何をしたっていうの?』

 泣き声に混じって響くその声に、ユキちゃんを凝視する。

「…真生。穢れから離れろ」

 不意にフィーが腕で庇うように、俺をユキちゃんから遠ざけた。それとほぼ同時に、孝にしがみついて泣くその小さな背中から、薄い靄のようなものが、ゆらりと生じた。

『世の中には、人を殺しても何とも思わないような悪い人だって沢山いるじゃない』

 金縛りにあったかのように動けない。ただ見るしか出来ない俺の前で、靄がどんどん濃く明確なものになっていく。

『どうして、その人達じゃないの? どうして、私なの?』

 やがてそれは、まるで冬虫夏草のようにユキちゃんと繋がったまま、くっきりと人の上半身の形になった。

『どうして、私が、死ななきゃならないの?』

 はっきりと形作られた顔をこちらに向けて、その口が声を発する。

 俺と変わらない年頃の女の子だ。はっきりした二重に、薄い唇。遥かに大人びてはいるものの、そこに確かに面影があった。今、孝にしがみついて泣いている小さなユキちゃんの、その面影が。

 

 ごくりと唾を飲み込んで、声が震えないよう喉に力を込める。

「…君が、本当の、ユキちゃん……?」

 質問というより、確認だった。否定も肯定も返ってこなかったけど、俺はもう確信していた。

 彼女は、ユキちゃんだ。あの映像は、このユキちゃんが見てきたものだ。駅でのことも、病院でのことも。亡くなるその時まで彼女の目が映していた、生きていた頃の彼女の記憶。それを俺は見たのだ。

 もう一人の、孝にしがみついているユキちゃんが何故あんなに小さい子供の姿なのか、それはよく分からないけど、なんにせよ、こっちの彼女が亡くなった当時のユキちゃんという認識で間違っていないはずだ。

『まだしていないことが、一杯あるの。やってみたいことも、もっとやりたいことも、一杯』

 俺を見たまま、彼女は話す。泣いている小さいユキちゃんとは反対に、その口調は静かで、表情もどこか他人事のように淡々として見えた。

『何度も祈ったのよ。まだ死にたくありません、どうか助けてくださいって。何度も、何度も、何度も。でも、だめだった。痛くて苦しくて苦しくて。起き上がることも出来くなって、自分じゃ何も出来なくなって。最後には祈る気力も、何も残されてなかった』

 言った目が、少し下を向く。

『なのに』

 そして再び目がこちらを見たとき、その口元には笑みが浮かんでいた。

『なのにね。空は綺麗に晴れていたの。冗談みたいに、綺麗に』

 にっこりと頬と口で笑いながら、彼女は言葉を続ける。

『私は苦しくて悲しくて、こんなに悔しいのに、空は知らん顔で綺麗に晴れていて。雲も、鳥も、花も、何も変わらずそこにあって。私は死ぬのに、世界は何もかも当たり前みたいに、変わらずに続いていくなんて、そんなの、』

 真っ直ぐに向けられたその笑顔の中、じっと俺を見る目だけが、微かにも、笑っていない。

『そんなの許せない』

 笑顔で淡々と言い切ったその声。その目。薄ら寒くなるほどそこに何の感情も、欠片も感じられなかった。

 自分を落ち着かせるために、すうっと小さく息を吸って吐く。そうして背筋を伸ばして、それから、声を出した。

「……それが、君が刻んで消せない念なの?」

 彼女はまた、肯定も否定もしなかった。黙ってこっちを見るその目を、俺も見返す。

 彼女を襲った理不尽さに対する、その悔しさは、きっと同じ状況になれば誰の心の中にも生まれるもので。俺だって、重さは違うかもしれないけど、一度ならず思ったことがあることで。だけど。

「なんで君だったかなんて、そんなこと分からないよ」

 そんなことが分かる人間は、きっとこの世に一人もいない。

「今この瞬間だってきっと、世界では大勢の人が亡くなっている。信じられないような極悪人がのうのうと生きている中で、生まれたばかりの赤ん坊が命を落としたりもしている。それが何故かなんて、誰にも分からない。でも、それでも世界は、続かなきゃいけない」

 誰が死のうと生きようと、それがどんなに悔しかろうと、悲しかろうと、まるで関係ないかのように。

「世界は、誰か一人によって作られたものでもなければ、誰か一人のために作られたものでもないからだ。存在する全てのもの、人間だけじゃない。空や雲や鳥や花や木や風や水、在るもの全部。それぞれがそれぞれのために世界を作りあっていて、それぞれのために世界は在って、それぞれのために今も続いているんだ」

 だけど、世界だって、本当は辛いのかもしれない。膨大な悲しみや痛みを表現する術を持たずに、ただそこに抱えているしか出来ないのかもしれない。俺達が知らない……、知ろうとしないだけで。

「君がなんでって思う気持ちは、歯痒いくらい分かるよ。俺も小さい頃からずっと、なんでって何度も思ってきた。だけど多分、それに答えなんてないんだ。悔しくても辛くても納得できなくても、俺達はそれを受け入れるしかなくて、受け入れるためにきっと、心とか感情が在るんだ」

 不公平なほど平等な現実。受け入れるしか術のない、やるせない思い。どれだけ俺達は、無力でひ弱な生き物なんだろう。だけど、その一方で、俺達ほど強い生き物はないのかもしれない。受け入れるしかなくとも、その悲しみや痛みを表現する術を持っているだけ、俺達は―――…。

 

 泣き声の中、沈黙を続ける彼女を見据えて、真っ直ぐに口を動かした。

「孝から離れてくれ。じゃないと、君は還れなくなる。もう、戻ってこられなくなる」

 彼女は、じっと俺を見た後で、その沈黙を破った。

『いやよ』

 はっきりした声だった。

『ずっと会いたかったの。でも、ずっと会えなかった。気がついたら駅にいて、そしたらそこに、彼がいたの。やっと、やっと会えたのよ。還れなくたって、もう戻ってこられなくたって、いい。離れない』

 言いながら彼女は、ふるふると小さく首を横に振った。その仕草は、小さなユキちゃんが見せたものと同じだった。

 本当に、ずっと会いたかったんだろう。孝のことが好きで、でも病気になって入院して、会えなくなって、彼女はきっとずっと本当に、物凄く孝に会いたかったんだろう。それを思うと、胸が詰まって泣きそうになる。だけど。

「よくない。君は、君一人のために在るんじゃない」

 世界に自分には関係ないなんてことがひとつもないように、自分だけのために在るものなんて、この世にはきっとひとつもない。たとえ、自分自身の命だろうと、それは自分だけのものじゃない。

「君にも、親や友達がいるだろ。残された人の気持ちも、少しは考えろよ。辛くて悔しくて納得できないのは、君だけじゃない。残された人達だってみんな、納得できずに苦しんでるのに、それでも容赦なく明日は来て、受け入れるしかなくて……。転生を願うくらい、それくらい、させてくれよ」

 残された人間の勝手な我が侭だと指摘されたら、その通りだと言うしかない。だけど、それでも願わずにはいられない。生まれ変わってでも、その人にまた生きてほしくて。その人が大事であればあるほど、どこかで生きていて欲しいと、どうしてもそう願ってしまう。それはきっと、感情を持つ人間の、心の性だ。

 涙が滲みそうになって、喉と口元をぐっと引き締めた。

 彼女はやっぱり、真っ直ぐ俺を見ていた。その口が、ぼそりと声を零す。

『……明日が来るなら、いいじゃない』

 震える喉を押さえつけて、無理やり強くしているような声。

『生きているんだから、それくらい、いいじゃない。生きていて、明日が来るなら、他に何だって出来るじゃないの。笑うことも、泣くことも、喜ぶことも、何だって。私にはもう、何も出来ない』

 さっきまでの淡々とした声の調子じゃない。感情の欠片もなかったその目に、正視するのが痛いほど強い感情が、確かに宿っていた。

『生まれ変わったら、それはもう私じゃない。この私は、この気持ちは、どうなるの? どこに消えて、無くなるの? いやよ、そんなのいや。そんなの絶対、許せない』

 小さく首を横に振る彼女を前に、喉の奥から熱いものが迫り上がってくる。泣いているのは小さいほうのユキちゃんなのに、こっちの彼女が本当は声をあげて泣いているかのようで、胸が痛くて苦しい。

 喉から迫り上がってきた熱が、目まで届く。その熱さに鼻の奥がつんと痛んで、息を吸うのもやっとだった。

 一呼吸を置いて、口で息を吐く。言葉で彼女に伝えるために、一度口を閉じて鼻で息を吸えば、かろうじて涙は押し留めていたものの、ずずっと、鼻が鳴った。

「………そうだね」

 しっかりと前を向いて、彼女の顔を見ながら、一言一言、しっかりと言葉にする。

「俺には、明日が来る。だから、孝が必要だ。俺が明日笑ったり、泣いたりするために、孝が必要なんだ。悪いけど、君の道連れにさせるわけにはいかない」

 もう何も出来ないと、震えを押さえつけて言ったその目に、痛いほど溢れていた感情。あれが彼女の本当。

「ユキちゃん。俺、分かった。君が許せないのは、世界じゃない」

 刻まれて消せない、彼女の最後の思い。

「君自身だ」

 

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