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【 07 】 - 2

 

 静まり返った階段を駆け下り、薄暗い廊下を全速力で駆け抜ける。途中、巡回中なのだろう看護師さんに出くわして、内心どきりしたけど、看護師さんは俺達の姿は勿論、足音や話し声にも、まるで気づかなかった。

 フィーの結界とやらはどうやら、姿だけでなく音まですべて消してしまうものらしい。どういう原理なのかはさっぱり分からないものの、静けさに包まれた深夜の病棟で、音を気にする必要がないというのは助かる。

 事故の後、孝は個室に移動になっていた。部屋が変わっていませんようにと祈りつつ、廊下を曲がる。

 途端、背中から脳天にかけて大量のイモ虫がぞわぞわと這いあがるような、なんとも嫌な感覚がした。不快感に、一気に鳥肌が浮き出る。

「……なんか、すげえ気持ち悪い」

「穢れの気配を体が感じておるのだろう。お主は今、私の結界に包まれておるゆえ、私同様に感じもすれば見えもするはず」

 横を飛びながら、フィーが俺の呟きに淡々と言葉を返す。

「案ずることはない。お主には髪の毛一本触れさせぬ。恐ろしければ、目を瞑っていても良いぞ」

「馬鹿にすんな。俺だって、そこまでへたれじゃねえよ」

 幽霊とかそっち系の話が人よりちょっと苦手なのは認めるけど、友達が実際にそれに苦しめられているのなら話は別だ。何も出来なくたって、目を瞑って全部フィーに任せるとか、冗談じゃない。

 部屋に近づくにつれて、不快感が強くなっていく。もはや足元から直接肌に、イモ虫やムカデがうじゃうじゃと這い登ってくるような感じだ。

「部屋は変わっておらぬようだな。見えるか、真生。あれが穢れだ」

 フィーが前を向いたまま、顎で部屋のドアを指して言う。俺は目にした光景に、盛大に顔を顰めた。

 確かに部屋は変わっていないけども、最後に見た時から、あまりにも様子が変わっている。

「…うえ…」

 気持ち悪さに吐き気すら覚えた。見るからにどろどろとしたコールタールのような、ナメクジみたいなもの。それがドアを縁取るように部屋の中からはみ出して、てらてらと光りながら、うねうねと蠢いている。何匹も、何匹も、それこそ大量に。

「あれが、穢れ?」

「正確に言うと、穢れが呼び寄せた澱んだ精気の成れの果てだ。場所が悪かったのもあろうが、ここまで多く呼び寄せるとは。あれは随分と奮闘したらしい」

 言いながら、フィーは何一つ躊躇することなく、部屋に近づく。と、まるでフィーから逃げるように、コールタールナメクジが一斉にぬらぬらと部屋の中に引っ込んだ。その動きがまた、気持ち悪いことこの上ない。しかも、心なしか、果物が腐ったような饐えた臭いがする。

「ほう。私に怯える程度の分別は、まだ残っておるのか。憐れなものよなあ」

 権高な表情でどこか皮肉っぽく笑い、フィーは手のひらをドアに向けた。触れもしないのに、それだけでドアが開く。 「うっ」

 思わず、鼻と口を手で覆った。

 つんと鼻の粘膜に突き刺さるような、酷い臭い。壁、床、天井、窓、余すところなく部屋一面に、びっしりと隙間なく重なって張り付くコールタールナメクジの大群。ぬめぬめとした肉厚の壁が、さながら胎動のように脈打っているその様に、これ以上ない嫌悪感が走る。

「澱は清に。腐は無に。流れ散れ」

 気味の悪い悪夢のようなその光景を前に少しも動じず、フィーが淡々と命じるように言い放つ。

 瞬時にして、目の錯覚のように、コールタールナメクジが一匹残らず掻き消えた。同時に、気分が悪くなるような饐えた臭いも消える。

「孝!」

 その現象に驚く余裕もなく、俺は部屋に駆け込んだ。部屋の中央、心電図やら何やらの機器で囲まれたベッドの上に横たわる人の無事を早く確かめたい一心だった。

 だけど。

『クルナ』

 孝の顔がはっきり見える距離に来るより早く、響いてきたその声に、瞬間、体が強張った。

 

 俄かには理解できず足を止めた俺の横を、フィーがすいと通り過ぎる。

 そのまま無言でベッドに歩み寄ったフィーは、孝を見下ろし、痛々しそうに目元を歪ませた。

「……さぞ苦しかったろう。今、楽にしてやる」

 だけど、そう言ったフィーの目は、孝の顔を見てはいなかった。

『チカヅクナ』

 再び響いてきたその声に俺は、さっき理解出来なかったことを、改めて確認し、理解した。

 言い知れぬ恐怖にぞわっと背筋が冷えると同時に、どうして、なんで。と、声にならない驚きと疑問で、頭がぐらぐらする。

「あるべき姿に還るがよい。賢者の愛娘よ」

『ヤメロ』

 悲鳴のようなその声を無視して、フィーは孝の体を一撫でするように、宙で手のひらを動かした。

『ジャマヲスルナ』

 横たわる孝の体に重なって、ぼうっと白いものが浮かび上がる。うっすらと白く、ぼんやりとしか見えないものの、人の形であることは間違いない。

 まるで幽体離脱のように孝の体から出てきたその影が、孝の体を残して動く。孝は眠ったままだ。フィーは白い影をじっと、労わるように見つめている。俺は、どこからか聞こえてくる声と、その影、どちらにも酷く混乱していた。

ただただ混乱する俺を余所に、孝から離れた白い人影が床に這い蹲るように身を伏せる。

「………申し訳、ございませぬ、ラインの乙女」

 聞き取るのがやっとの、今にも消え入りそうな、か細い声。それは明らかに、さっきから部屋に響いている声とは異質のものだった。

 フィーは、静かに首を横に振った。その口が、はっきり動く。

「立て。面をあげよ。詫びねばならぬのは、私のほうだ」

 仕草同様に、静かな口調。静かなだけに余計、そこに滲んだ悲哀が色濃く目立つような気がした。

「すまぬ。こうなると分かっていて私は、一度そなたを見捨てた。言い訳はせぬ」

「貴女様がお侘びになることなど、ひとつもございませぬ」

『ジャマヲスルナ』

 消え入りそうな声に、どこからか響く声が重なる。状況がよく分からない。とにかく、納得いかないにしても筋が通った話が聞きたい。何故、孝に取り憑いたのか。この、もうひとつの声は何なのか。

「こうなることを覚悟の上、父の元を去ったのは私。すべて、我が身の業にございます」

『ジャマヲスルナ』

 お前のほうが邪魔をするなと、混乱のあまり思わず怒鳴りたくなる。だけど、多分この声は、怒鳴ったりすれば忽ちに泣きだすに違いない。響く声の質に、俺はそれを確信していた。

「そればかりか、貴女様が私どもに下賜くださった御力をこのような形で手前勝手に使い失くしてしまったこと、どうかお許しくださいませ。力なき憐れなる者の愚行と、何卒ご容赦くださいませ」

 殆ど床にめり込むように平伏して許しを請いた後で、人影はゆらりと身を起こした。窓から差し込む月の光に、その姿が透ける。

 桜の花びらのような着物。流れる毛の先までも優雅な、綺麗な長い髪。ぼんやりと白く透けてしまっているものの、そこにいるのは間違いなく、あの公園で会った桜の樹霊さんだった。

 

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