【 06 】 - 2
その言葉に、シシィにしがみついたまま、下方を見る。目に映る限り、真っ暗だ。街の明かりも、陸の影も、何も見えない。
「着くって、え。ここ?」
きょとんとなりながらも、俺は微妙に眉を潜めて訊き返した。その矢先。
「んじゃ、ここいらでいっか」
あっけからかんとそう言い放ったシシィから、有無を言わさず、いきなり振り落とされた。
顔をあげる暇もなければ、声をあげる暇もなかった。轟々と唸る風の激流に飲み込まれ、体が忽ち沈む。咄嗟に手を伸ばしてシシィを掴もうとしたけど、強風に目を開けることさえ不可能なのに、掴めるはずもなかった。
ばた狂ってもがいても、どんどん激流に揉まれて、どんどんどんどん、体が底に沈んでいく。とにかく、苦しい。息が続かない。
意識がうっすら遠くなりかけた時、突然、全身を殴りつける激流、つまり、強風が止まった。今までの分を取り返そうとするかのように、肺が一気に酸素を求めて、激しく咽る。咳き込みながらも、直後、今度は底が抜けたような重力を感じた。
「っ、うわああああ!!」
驚きに一度大きく開いた目を、恐怖でぎゅっと瞑る。内臓が浮くような、独特の感覚。抗力を無視して、無理やり空気の層を突き破る際の、肌に直接感じる摩擦。落ちている。紛れもなく、落ちている。頭から、真っ逆さまに。
さっきまでと違い、かろうじて息は出来るものの、気圧で鼓膜が痛い。いくら唾を飲んでも、痛い。どれだけのスピードで自分が落下しているのか分からないけど、風圧が凄くて、縛り付けられているかのように身動きが出来ない。鼓膜が破れそうだ。
不意に、きつく閉じた瞼に明るさを感じた。薄く目を開けると、真っ暗だった視界に、銀色の明るい影が映った。
フィーだと思った。助かった、無意識にそう思い、目をそちらに向ける。だけどそれは、フィーじゃなかった。そんな場合じゃないというのに、俺は目に映った光景に、一目で心奪われて、一瞬、息すら忘れた。
「いきなり落とすやつがあるか、阿呆!」
突如聞こえた声に、体にかかっていた空気抵抗が消える。同時に、下向きだった頭が、くるりと上を向いた。
「こやつは人間ぞ! そなたの千倍も万倍も、ずっと脆く、ずっと弱い生きものなのだぞ!」
落下が止まった視界のその端、俺のすぐ近くで、フィーがシシィに顔を向けて、肩を怒らせていた。
「分かってるよ。ちゃんと下で、風達に支えさせるつもりだったってば。そんなに目くじら立てなくていいじゃんか」
悪戯を叱られる子供みたいにシシィが言い、愚痴っぽく零す。
「銀の姫は何かっていうと、人の子贔屓だから嫌になるよなあ」
その言葉に、フィーは更に声を尖らせる。
「人間贔屓をしているのではない。己より弱い生きものを慈しむ心を、もそっと持てと言うておるのだ。大体そなたは、昔から何かと生きものを玩具のように……」
「あー、はいはいはーい。その説教はもう聞き飽きましたあ」
まるで姉弟喧嘩のようだ。俺はそんな二人を余所に、目の前に広がる光景に、ただ、ただ、瞬きも忘れて見入っていた。
闇より深い濃紺の空にくっきり浮かぶ、大きな、見たこともないほど大きな、銀色に輝く満月と、その月光に明るく照らされた、静かな夜の海。
どこまでも果てなく広がる、まるで月の光の粒子ひとつひとつが煌く結晶となって波間に漂っているかのように眩く揺らぐ、銀色の水面。
見れば見るほど、心がまっさらに洗われるようだった。どこまでも清く凛としたその眺めに、潮風さえ清澄に感じる。 どんな夢幻の世界でも、これほど清らかで、美しい情景は、きっと、ない。
一人恍惚となっている俺に気づいて、フィーが気遣わしげな視線と声を寄越す。
「真生、大丈夫か」
「ああ…、うん……」
そう答えながらも、目を逸らせない。あまりに綺麗に過ぎて、目が離れたがらない。俺が何に惚けているか、気づいたらしいシシィが、肩に手をかけてくる。
「綺麗だろう?」
黙って頷いた。この景色の前では、俺の言葉なんか無力だと思った。どんな賛辞の言葉も、口から出た瞬間に霞んでしまう。
「銀の姫が生まれた海だ」
「…え……」
その言葉に、ようやく目が動いた。シシィは遥か遠くを見るような眼差しで、海を見つめていた。
「気高きは、白に輝く波より出で居る白の姫。芳しきは、金に煌く海より出で居る金の姫。そして、麗しきは、銀に光る海より出で居る銀の姫、ってな。知恵を持ち始めた最初の頃の人の子は、よくそうやって唄っては、姫達の美しさを称えてたんだ」
誇るようでいて、どこか哀愁を帯びたその声色に、無性に切なさがこみ上げた。しんみりとした痛みが胸に広がる。会ったばかりで何だけど、少なくとも俺が知っている彼には似合わない憂いの色を、シシィはその目に浮かべていた。
「さあ、ぐずぐずしておる暇はない」
仕切り直すように、フィーが凛然とした声をあげる。この清く美しい情景の中、フィーだけが違和感なく存在し得るように思えた。
「お主はやはり、運が良い。月夜であれば、多少は私に利がある」
言いながら、フィーは俺の前に立つ。横からシシィが、気後れしたように口を挟む。
「なあ。やっぱり、そいつを連れて行くのは、まずいんじゃないか?」
「仕方あるまい。私が行くには、真生を連れて行く他ないのだ」
きっぱり答え、フィーは迷いのない目を真っ直ぐに俺に向けた。
「覚悟はよいか、真生。私の話をしかと聞き、しかと心に刻め」
凛と澄んだ青い目。たなびく銀色の髪。彼女が生まれたというこの銀の海の上、それは光り煌き、月光を浴びますます輝くようで、鬼気迫るほどの美を俺の目に見せ付けていた。
緊張に息を吐き、静かに息を飲む。瞼を閉じ、脳裏に浮かぶ顔に強く祈った。握った拳を更に握りしめ、自分の鼓動を確認し、目を開く。そこに見える青に、俺はしっかりと頷いてみせた。
フィーは、それに対し黙って頷くと、静かに両手を俺の頬にあてがう。
「よいか、お主は全に属しておるが、城戸真生という名を持つ、一だ。全に囚われるな。お主は、一なのだ。一であることを己が胸に、何より深く強く刻み持て」
真剣な眼差しで、フィーは俺を見る。俺もまた真剣に見返す。神経が張り詰めて切れそうなほど極めて真剣なのに、それでも、その青い目を前に湧き上がってくるこの罪悪感は、いつか理由がつく日がくるのだろうか―――…。
「それでも全に溺れそうになったらば、己が名を頼りにせよ。名には必ず、その者を守る力が宿っておる。お主は、真生という名を誰に与えて貰うた?」
「母さんが、くれた」
この名前なら、男の子でも女の子でも大丈夫だからって、母さんが決めて、まだ性別も分からないお腹の中の俺に向かって父さんと二人、いつも笑いながら話しかけていたって、そう、皐月さんが教えてくれた。俺を愛してくれた父さんと母さん、そして皐月さんのためにも、俺は絶対に生きて戻る。
俺の返事に、フィーは静かに微笑んだ。
「ならば、その守りはこの世で最強のものだ。よいな? 全に属しても、一であることを決して夢見忘れるな。己が名を、そこにいる母を忘れるな。お主は、城戸真生。お主は、一だ」
俺は、城戸真生。俺は、一。心の中で、呪文のように繰り返す。緊張で、抗いようもなく心臓が高鳴る。
「私が必ず、生きて連れて戻す」
宣誓のように力強くはっきりと、フィーが言った。その顔が近づく。瞬きが追いつかなかった。青い目が閉ざされて見えなくなる。
次の瞬間、柔らかなもので、唐突に俺は口を塞がれていた。
驚きに思わず目を見張る。ほぼ反射的に仰け反った体を押さえるように、フィーが両手で俺の頭を抱え込んだ。塞ぐように押し付けられる柔らかな感触が、フィーの唇だと頭で理解するより早く、何かが口内に入ってくる。舌とかじゃない。違う何か。生きた、フィーとは別の何か。それが、フィーと重なった部分から流れ込んできて、体内を凄い早さで駆け巡る。全身に、それが満ちていく。
不思議なくらい、不快感や嫌悪感はなかった。それどころか、気がつけば俺は、無意識のうちにそれをもっと欲して、我も忘れて自分から、フィーの唇をこじ開けていた。
フィーはそれを容認した。そして俺の頭を抱えたまま、俺もろとも、銀の海に溶け落ちた。
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