【 02 】 - 2
「手?」
突然の要求にきょとんとする俺を無視して、皐月さんはいきなり、俺の右手をむんずと掴んだ。と、思ったら、
「やっぱり、こういうのは左手のほうがいいかな」
そう独り言のように呟いてすぐさま今度は左手を取ると、俺が何かしら口を挟む暇なくそのまますっと、人指し指に古い指輪を滑らせた。
「何これ?」
「指輪」
「見れば分かるよ。そうじゃなくて、何のつもりだって聞いてるの」
意味が分からず、眉を顰めて皐月さんと指輪を交互に見る。
いつの時代の物かは判らないけど、見るからに年代物の指輪だ。中央に埋め込まれた青い石の他には何の装飾もなく、硫化したのか元々そういう色なのか、黒ずんだ銀の土台が、その石の青さを更に際立たせている。
素直に、綺麗だと思った。
皐月さんの仕事柄、俺も結構色んなアンティークジュエリーを見てきたけど、こんな石を見たことがない。一見、サファイアに似ているけど、どこか違う。透き通るほど透明なのにどこまでも濃く深い、不思議な色合い。見ていると、吸い込まれそうな気さえしてくる。体も意識も丸ごと全部、青の中に吸い込まれて、そのまま遥か宇宙の深遠まで飛ばされそうな、そんな――――……。
「どう? どんな感じ?」
知らず知らずのうちにすっかり石に見入ってしまっていたらしく、皐月さんの問いかけに、はっと我に返る。皐月さんは、俺というより、指輪を見ていた。どことなく、興味津々といった感じに見えるその眼差しを訝りつつ、口を動かした、その時だった。
「どんな感じって……」
『ふむ、悪くはないな』
それは、どこからともなく突然、俺の声に被さって響いてきた。
反射的にびくりと肩が跳ね上がる。ぎょっとして辺りを見回すも、部屋にいるのは、当たり前だけど、俺と皐月さんの二人だけで。
声の発生源が俺じゃないとしたら、皐月さんしか考えられない。だけど、聞こえてきた声は皐月さんの声じゃなかった。皐月さんの声であってほしいと心底願うけれど、残念ながら鼓膜にこびりつくように残っているのは、皐月さんがどんなに裏声を駆使したとしてもまず無理だろう、女の子の声で………。
全身が強張り、感じたことのない種類の寒気が、ぞぞぞっと一気に背筋を駆け上る。
なのに、皐月さんときたら、目の前で声どころか多分顔色さえ失くしているだろう俺には目もくれず、一人こくこくと頷きながら、どこか誇らしげな笑みを浮かべているではないか。
「そうだろう、そうだろう。なんせ真生くんは、僕が手塩にかけて育てた子だからね」
『ほう。お前の息子か?』
「いや、違うよ。まあ、気持ちの上では息子みたいなもんだけどね」
怖い。
出所の分からない声も怖いけど、それ以上に、少しも驚くことなく平然と笑顔でそれと会話を交わす皐月さんが怖い。怖すぎる。
「あ、あの、さささ、皐月さん? だだだ、誰と喋ってるの?」
恐怖のあまり、情けないほど裏返ってしまったその声に、皐月さんが漸く思い出したように俺を見た。
「ああ、ごめんね。一人蚊帳の外にしちゃって」
申し訳なさそうに俺に謝ってみせた皐月さんがまた、見えない第三者に喋りかける。
「ねえ、もう出られるんでしょう? 出ておいでよ」
出られるって何? 出ておいでって何処に? てか、誰と喋ってんの、だから。
皐月さんに対するそう言った数々の疑問は、次の瞬間、俺の頭の中から完全に消し飛んだ。
代わりに口から飛び出したのは、悲鳴。
「ぅわあああああっ!!」
それは本当に一秒にも満たない、瞬き一回分くらいの、本っ当に、刹那の出来事だった。
指輪が急に重くなった気がした途端、今度は空気のように軽くなった。
それを怪訝に思う暇もなかった。
その時にはもう、俺の目は理解不能なものを映していた。
俺の目の前、卓袱台の上に浮かぶ、見知らぬ女の子。
卓袱台の上に立っているのでも、座っているのでもない。
浮かんでいるのだ。
音もなく、唐突に。悠然と、ただ、宙に。女の子が。
「ななななななっ、えええええええええっ!?」
「うるさいよ、真生くん」
言葉にならない叫びをあげる俺に、皐月さんが嗜めるように言ってくるけど、いやいやいや。この状況で落ち着いていられるあんたのほうが、絶対おかしい。
声を荒げて反論したいのは山々だけど、あまりにもパニックに陥っていて、意味のある言葉が喋れない。
殆ど腰が抜けた状態で口をパクパクさせるしかない俺を尻目に、突如現れた女の子は、まるで初めて見るもののように、自分の体を物珍しげにあちこち見ている。
その青い目や、見方によっては水色にも見える銀色の髪からして、明らかに日本人じゃない。というか、その前に人間じゃない。姿形は確かに人だけど、でも、いくら世界が広いと言っても、何もないところから突然現れて、何の仕掛けもなく、重力を無視して浮かんでいられるような人間がいるわけがない。そんなの、有り得ない。だとしたらこの子は、あまりその路線で考えたくないけど、でもやっぱりこの場合この子は、もしかしなくても、
「ゆ、ゆゆゆ、幽霊!」
「幽霊だと? 誰に向かって口をきいておるのだ。仮にも初対面の相手に対して無礼であろう」
思わず口から出た言葉に、女の子が宙に浮いたまま、むっとした表情でこっちを見る。その、どきりとするほど青い目に、瞬間息を呑んだ俺は、不意に奇妙な感覚に襲われた。
どこかで見たことがある。何故か強くそう思う。
だけど女の子が言った通り、この子とはこれが初対面だし、青い目の知り合いなんて他にいない。でもこの目を、この色を、俺は確かに以前どこかで見た。見たことがあるのだ。どこでいつかは分からないけれど、間違いなく。
こういうのをデジャヴと言うのだろうか………。
そんな場合じゃないにもかかわらず、自然と怪訝さに眉根が寄ったのも束の間、俺はすぐ答えに行き当たった。
指輪だ。
人指し指に嵌められた指輪の石の色とそっくりなのだ、女の子の目の青が。
「じゃあ、改めて紹介するね」
吸い込まれそうなほどに澄んだ青にじっと睨まれて、軽く放心状態の俺を余所に、皐月さんがその場を仕切るように言う。
「この子が僕の甥っ子、真っ直ぐに生きると書いて、真生くん。真生くん、こちら、ええと、とりあえず指輪ちゃんでいいかな?」
そう言って確認するように女の子を見た皐月さんに、女の子がこくりと頷く。
それを受けて皐月さんが微笑み、のんびりとした口調で続けた。
「じゃ、真生くんに指輪ちゃん。めでたく顔合わせも終わったところで、羊羹でもどう?」
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