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「レネの母親の名前だ。私の本来の精霊名は、人間には発音が難しいゆえ、レネの妻となった日に、私はレネからその人間名を貰い受けたのだ。レネの妻として、人間の環の中で生きるために」

 結局、上手には生きられなかったが。

 苦い感情を飲み下して、笑って真生に顔を向けた。真生はずっとそうしていたのか、それとも今そうしたのか、ベランダの手すりに肘を突いて私のほうに顔を向けていた。

「フィーという略称は、レネが気に入っていた呼び方だ。私も気に入っておった。レネとは言語が違うお主でも、なかなか呼びやすかろう?」

「まあな」

 問いかける私に、真生がこちらを見たまま短く答える。

 いつからだろう。つい数ヶ月前までは私の目を見たら死ぬとでも言うように、ろくに顔を向けもしなかったのに、最近真生は臆することなく私を見てくる。それもどういうわけか、たまにどことなく申し訳なさそうな顔で私を見ている時がある。まあ、無駄に怯えられるよりはいいが、どういう心境の変化だと首を捻りたくなってしまう。

 生じる疑問を上手く言葉に出来ず、あやふやにそこに残して、また空に視線を返す。見上げた先には、レネと二人で見上げていた星が、あの頃より随分輝きを淡くしたものの、確かに同じ星として存在していた。

「レネの母親って、どんな人だったの?」

 ふと横から聞こえてきた声に、夜空を目に映したまま、息を吐いて答える。

「知らぬ。私がレネと出会った時にはもう、いなかった。レネが小さい頃に、亡くなったそうだ」

「……俺と同じだな」

 微かな間の後に返された言葉に、唇だけで小さく笑う。同じではない。まったく違う。喉まで出掛かったそんな言葉の代わりに大きく息を吐いて、胸のうちを打ち明けた。

「私はなあ、真生。叶うものなら、人間に生まれたかった。人間に生まれて、レネを産んで、レネの母親になりたかった」

「母親だったら、レネとは結婚できないぞ」

「それはそうだが。だが、母親にしか与えてやれぬものがある。私はそれをレネに与えてやりたかったのだ」

 にべもない返答に笑いながらも、自分で自分が不思議だった。何故、真生にこんな話をしているのだろう、私は。自分でもよく分からない。もしかしたら、この寂しい夜空のせいかもしれない。

 今にも降ってきそうな満天の星空をレネと二人、草の生えた地面に寝転んで見上げていたのは、つい昨日のことのようなのに。交わした言葉も、触れた温もりも、息遣いも、匂いも、感触も、何一つ色褪せずに今もここにあるのに。それは、私の胸の中にだけで。実際にはもう、星も僅かしか見えなければ、柔らかな草の生えた大地もなく、レネも、傍にいない。私だけが、あの日あの時のまま、取り残されてしまった。私だけが、今も―――……。

 

 ―――あの星があったから、フィーに会えて、一人じゃなくなった。

 

 記憶の中の手を握り返すように、手のひらを握り締めた。

 大丈夫。誰に言うわけでもなく、心の中だけで自分に呟く。あの星はまだ、あの場所にある。生まれた意味を知ったと思ったあの日の、あの時の幸福を映したかのような星空だって、見えないだけで今も変わらずに、この頭上にある。

 絶え間なく押し寄せる寂しさは限りない愛しさで封をし、空を見つめれば、横で真生が長い息を吐くのが聞こえた。顔を向ければ、真生はさっきと変わらず手すりに肘を突いた姿勢で、こちらを見ていた。

「なんか、分かった」

「何が?」

 唐突な言葉に首を傾げる私に、真生はどこかしら恨めしそうに声を返す。

「お前が、何かと俺を子ども扱いする理由が」

「お主の場合は純粋に、ただ幼くて可愛いからだ。レネの母になりたかったと思う気持ちと、お主を子供のように可愛く思う気持ちは、根本のところで全く違う」

「可愛いって……」

 思わず素直に言ってしまった私の返しに、真生は思ったとおり、嫌そうな顔をした。その顔すらあどけなくて、笑ってしまう。愛されて生まれて、愛されて生きてきた、その愛を素直に刻んだ真生の顔。羨望でも願望でも、そのままでいられるよう守ってやりたいと心底思う。

 馬鹿にされているとでも思っているのだろう、笑う私を面白くなさそうに不貞た顔で見ている真生を前に、憚ることなく笑って言う。

「真生。前に、今のレネの容姿について話したのを覚えておるか?」

「うん?」

 レネは今、幸せだろうか。

「今のレネがどのような顔をしておるか分からぬが、願えるなら、お主のような顔をしていてほしい」

 幸せで、あってほしい。

 許されるのなら、誰よりも。

「俺みたいな顔?」

「言っておくが、顔の造りの話ではないぞ」

 怪訝そうに眉を歪めた真生に、茶化すように笑って言った。

 レネがいつも見上げていた星。暗闇のような狭い世界で、レネの唯一の灯火だったもの。その星が今もそこにあるように、私の灯火も、あの頃から変わらずに胸にある。だから、大丈夫。この道は必ず、レネに続く。いつか必ず、レネに繋がる。

 真生は呆れ半分睨み半分と言った具合に目を狭め、一人笑う私を見ていた。ややあって、その首が軽く竦められる。

「わけわかんね」

「だろうな」

 思ったまま笑って返せば、真生は諦めたように手すりから体を離した。

「もう中に入ろう。風邪引く」

 促すように言って、部屋のほうへと向き直る真生に言って返す。

「私は引かぬ」

「俺が引くの。風呂上りだし、湯冷めしちまう」

「ならば、お主は部屋に入れ。私はもう少しここにいる」

 なんとなく、もう少し空を見ていたい気分だった。そこにいるわけじゃないと分かっていても、そこにレネの面影を重ねていたくて、空へと視線を戻す。

 と、不意に、手すりに乗せていた腕に温かな肌が触れた。目を向ける暇なく、真生の手が手すりの上から引っ張り下ろすように、私の腕を取っていた。

「……中で、一緒にゲームでもしよう」

 顔を向けた私に視線を返すことなく、どこか躊躇いがちに言って、そのまま真生は部屋へと足を進める。腕に体を引っ張られ、仕方なしに私も手すりから離れながら、その顔をやや斜め後ろから覗くように窺がう。

「ゲームって、お主はもう眠らねばならぬ時間であろう」

「ちょっとだけ相手してやるよ」

 言い捨てるように返された言葉の響きに、腕を引きながらもこちらを見ようとしないその顔に、知らず知らず笑みが浮かんだ。

「………お主は、優しいな」

 素直に感じたままを声にして、中に入るために窓を開けるべく一瞬歩みを止めた真生に向かって、掴まれていないほうの腕を伸ばす。今の私の身長では真生の頭の天辺に触れることは出来ないが、それでも気持ちを込めて、良い子良い子と優しく、その後頭部を撫でた。ら。

 途端、不貞腐れた顔が、不貞腐れた声付きで振り返った。

「だーから、そういう子ども扱いやめろ」

 私にしてみれば感謝の気持ちだったのだが、上手く伝わらなかったようだ。頭を撫でる行為は親愛の表現だと思うのだが、どうも真生には、馬鹿にされているという感覚のほうが強いらしい。妙なところで、プライドが高いやつだ。

 不満そうに口を尖らせて、窓を開けた真生が部屋の中に入る。促されて、私も続いてベランダを後にしながら、少しだけ後ろを振り返る。

 目に映るは、寂しい夜空。そこにまだ確かにある、淡く瞬く星。ずっとそこで地上を見守ってきた、光に満ちた星。

 願うことがこの身にまだ許されるなら、どうか――――。

「フィー。電気つけるから、カーテン閉めて」

 聞こえてきた声と同時に、部屋が一気に明るくなる。あの頃にはなかったその明るさに微かな眩暈を感じながら、手と口を動かす。

「閉めてやるから、その代わり、今日は私に勝たせろ」

「どういう交換条件だよ」

 カーテンを閉める私の傍らで、呆れた声を返しながらも、真生がゲーム機の電源を入れる。その姿をちらりと盗み見、浮かぶ微笑に、カーテンの隙間から窓の向こうを見上げた。

 願うことが許されるなら、どうか。

 真生のように、寂しさの中に誰かを一人残すことを心苦しいと感じる人間が一人でもいい、レネの傍にいてくれることを。

 この寂しく広い空の下で、どうかもう、一人じゃないように。

 灯火だらけの道を、あの頃とは違う笑顔で、歩いているように。

 

 彼方に向けて祈った願いは確かな輝きを纏って、静かに想いを照らした。

 

 

(終)

(2013.08.01)

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