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 書類手続きをする二人にお茶を出し、掃除道具を取るため一旦奥へ引っ込んでから再びリコが店内に戻ると、もうそこに女性の姿はなかった。

「あれ、もう送ったんですか?」

 マスターが仕事が早いのはいつものことである。だからそこまで大きく驚きはしなかったものの、やはりちょっとは驚いてリコがそう尋ねれば、マスターはまだほかほかの湯気を放つカップを手に、紅茶の香りを楽しむように目を伏せたまま頷いた。

「うん。日時がはっきりしてたからね」

「そうですか」

 お疲れ様です。と、軽く労いの言葉をかけ、箒片手にマスターの方へと歩み寄る。先程まで女性と向かい合わせでマスターが座っていた、今現在マスターが一人でお茶を飲んでいる円状のテーブルの上には、女性が口をつけていないカップと、書類がそのまま放置されていた。

 箒を脇に置いてそれらを片付けにかかったリコは、書類に目をやって受領の印の下に書かれた対価名に、またかと肩を竦めた。

「マスター。また対価を時間だけにしたんですか」

「いいじゃない、別に。規約違反でもなければ、食うに困るわけでもなし」

「別にいいですけど。ただ、本当に欲がないなあって思って」

 呆れ半分尊敬半分の気持ちを、そのまま顔と声に出してリコが言えば、マスターは紅茶を一口ゆっくり飲んでから、微妙に笑うように口元を歪ませた。

「欲がない、ねえ。じゃあ、リコなら何を貰うの?」

「え、私ですか?」

 目をぱちくりさせるリコを見ながら、マスターは頷く。その手からソーサーに戻されたカップが、カチャンと小さく鳴った。リコはその中身が空なのを確認してカップを下げながら、軽く悩んだ。

「うーん。さっきのお客さんだったら、そうですねえ。あ、あの髪飾りは綺麗だったから、あれ貰っちゃうかな」

 真珠の細工がついた銀の髪飾り。あれは綺麗だった。消えて無くなってしまうのはちょっと勿体無いと思うくらいには。 

 しかし、素直に答えたリコに返ってきたのは、デリカシーのない乾いた笑い声だった。

「あははっ。リコって、一応本当に『女の子供』なんだねえ」

 その物言いに、リコの頬が不満げに膨らむ。

「一応って何ですか、失礼ですよ。マスターこそ、『男の大人』なんだからもうちょっと『紳士』らしくしたらどうですか」

「はは、ごめんごめん。………ところで、リコ」

「何ですか?」

 用済みになったカップ二つをキッチンに運びながら、ややぷりぷりして声だけを返すリコに、マスターは悪びれた様子なく、テーブルの脇に置かれた箒を指す。

「なに、この箒? まさか本当にまた掃除する気?」

「だって、暇なんですもん」

 言って返しながら、カップをキッチンの流しに置く。蛇口を捻ろうとしたところで、どこか呆れたようなマスターの声が飛んできた。

「はあ、働き者だねえ。でも、また来るよ」

「え、お客さんがですかっ?」

 リコは思わず手を止めて、期待に満ちた顔でマスターを振り返った。マスターは変わらない位置から、リコを見ていた。

 その若草色の目が、眩しいものを見るかのように、少しだけ細くなる。

「次はリコも見てるといい。技は習うより盗め、だよ」

 

 ということは、またその手のお客さんなんですか。と、リコが聞き返すより、それは早かった。

 チャリンチャリンとドアベルが鳴って、リコが慌ててキッチンから出た時には、客らしき人影はもう店内に立っていた。 

 リコはそれを知ると、すぐさま笑顔で愛想のいい声を元気に響かせた。

「いらっしゃ、」

 正しくは、元気に響かせようとした。

「…い、ませ」

 しかし実際のところ、リコの声は勢いを宙に吸い込まれるように尻すぼみになってしまった。かろうじて顔に貼り付けている笑顔も、百点満点には程遠い、お面のような硬さのあるものになっている。

 幸い、不安げに店内を見回していた女性は、リコの様子まで気にする余裕はないらしい。

 マスターは、そんなリコの様子も女性の様子も気にかけることなく、無言ですっと立ち上がると、古臭い作法で慇懃に女性へお辞儀をしてみせた。

「いらっしゃいませ、ようこそ『時間屋』へ」

 マスターの言葉に、女性が黒く濡れたような長い睫毛を震わせながら、躊躇いがちに口を開く。

「あの………。ここは時間を扱っていると…」

「はい、当店は『時間屋』でございますから。お望みの時間を指定していただきましたら、お客様の大事な心を安全且つ迅速にそこへお送り致します」

「…心…、だけなんでしょうか?」

「いいえ。お望みであれば、心以外のものもお送り出来ますよ。マダム・ロワール」

「何故、私の名を………」

「これは失礼。はじめまして、でしたね。私は店主のセルジュ・ブランベルと申します。こちらは助手のリコ。リコ、お客様にお茶を」

「あっ、はい」

 涼やかな笑みでマスターに促され、リコははっとして、キッチンへ戻った。

 そして急いでお茶の準備をすると、粗相のないよう注意しながら、二人が話を進めているテーブルへと向かった。

 先程と同じテーブルで同じ説明を受けながら、先程と同じようにマスターと向かい合わせで座る女性。

 リコは邪魔にならないように小さな声で、「どうぞ」と、お茶をテーブルに置きながら、その女性をそっと見やった。

 黒い大きな瞳に、同じく黒い濡れたような長い睫毛。造作だけを見れば、素晴らしく美しい顔の造り。

 間違いない。ここにいる女性は間違いなく、つい先程来た女性と同じ人物だ。しかし同時に、彼女を包むありとあらゆるものが先程までとは大きく違ってしまっていることもまた、間違いない。

 健康的に程よく肉がついていた体は、骨と皮だけと言っていいくらいガリガリに痩せて、ふっくらとしていた唇さえも、薄くなってひび割れがひどい有様だ。着ているのは何の飾りもないよれよれのワンピース一枚で、埃と汗でもはや元の色が何だったのかよく分からないほど変色している上に、ところどころ生地が薄くなって破れてまでいるし、綺麗に結い上げられていた濃い栗色の髪は、櫛を長く入れていないかのようにぼさぼさで、白いものが多く混じり艶もない。勿論、真珠の細工がされた髪飾りなどあるはずもない。

 時間に心以外のものを送った場合、こういった変化が起こり得ることは、リコも学舎で学んだ身なので知っている。知ってはいるけども、実際目にするのは初めてだった。

 時間の選択ひとつで、人にはここまでの違いが生じるのかと、リコが感慨に耽っている間にも、マスターは先程と同じ説明を、同じく説明文を読んでいるかのように、淡々と続けている。

「わかりました。では、規則ですので、こちらにサインをいただけますか。それから、対価についてですが、」

 瞬間、書類にサインをしていた女性のやせ細った肩がびくりと震えた。

 大きな黒い目が怯えたように、それでいて縋るようにマスターを見る。

「………すみません、私、お渡しできるものが何も……」

 おどおどする女性を前に、マスターは顔色一つ変えなかった。それどころか、抑揚のない口調でさらりと、とんでもないことを言い放った。

「先程いただきましたから、今回は結構です」

「えっ!」

「…え?」

 つい咄嗟に声を上げてしまったリコと、意味が分からず聞き返した女性の声が重なる。

 本来なら、客とマスターとの会話に助手が割り込むなど褒められたことではないし、リコも絶対しない。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 支局が定めた対価を無視するのは、重大な規約違反である。認定取り消しどころか、最悪、躯を剥奪される可能性もある。

「ちょっとマスター! 何を言って…」

 しかし、焦って横から口を挟んだリコを有無を言わせぬ笑みでいなすと、マスターはその笑みをそのまま女性に向け、再び淡々と言葉を続けた。

「と、言いたいところですが、上が厳しいもので、やはり今回も貴女のこれまでの時間をいただきます。術の発動は貴女を時間に送った五秒後。貴女は行き着いた時間の中で、その五秒以内に、今の貴女が望む時間を選択してください。五秒経つと、これまでの貴女の時間はすべて貴女の中から消え去ります。いいですね?」

「…は、はい…?」

「では、お別れです。マダム・ロワール。願わくは、マダム・ロワールとしても、マダム・ボールダーとしても、貴女のまたのご来店がないことを」

 今ひとつ事態が飲み込めていない様子の女性にそう告げるやいなや、マスターが手のひらを女性の顔の前にかざす。

 リコは慌てて、何一つ見逃さないようにと目をこれ以上ないほど大きく見開いた。

 

「どう? 何か盗めた?」

 女性が消えた店内で、マスターが座ったまま、リコを見上げる。リコは突っ立ったまま、思いっきり顔を顰めてみせた。

「盗めるわけないじゃないですか、あんな一瞬で」

 本当に一瞬だった。いや、一瞬とも呼べない刹那だった。見逃すも何も、あれじゃ何も見えないに等しい。

 不貞腐れたように項垂れるリコを尻目に、マスターは本日二度目の紅茶を楽しむべく、カップを手に取る。

「あれえ、おかしいな。今回はリコのお手本にと思って、随分ゆっくりやったんだけどなあ。まあでも、リコは元々優秀なんだし、心配ないよ。きっと次の認定試験は大丈夫だよ」

「わー、気休めありがとうございますう」

 泳げない人に「人は浮くから大丈夫」と言うぐらいの適当さで軽く言ってのけるマスターを、リコはじとっと睨んだが、当の本人は紅茶の香りを楽しむべく目を瞑っていて、もうリコのことなど見てはいなかった。

 リコは諦めのため息を一つ吐くと、テーブルの上を片付けにかかった。

 盆に乗せるべく、再び口をつけることなく残された女性のカップに手を伸ばす。そこではっと、気になっていたことを思い出して、リコはマスターに顔を向けた。

「そうだ。ねえマスター、あのお客さんって…」

「ああ、リコは初めてだったね。彼女は周期的に来るから、覚えておくといい」

 紅茶を一口飲みながらのマスターの返事に、やっぱり。と頷いて、更に尋ねる。

「彼女は、いつも同じことを?」

「そうだよ。彼女はいつも、マダム・ボールダーとしてやってきて、その後すぐ、マダム・ロワールとしてやってくるんだ。この前来たのは、えーっと、いつだったかなあ。確かリコがここに派遣されてくるちょっと前だったと思うから、ちょうど五十年くらい前になるかな」

「彼女、もう三百年近くは経っているように見えました」

「そうだね。それくらいは経っているだろうね。初めてここに来たのがそれくらいだったから」

「………三百年近くずっと繰り返しているのに、それでもまだ気づかないんですね」

 リコは盆に乗せたカップに視線を落として、そこに言葉を落とすように呟いた。

「マスター、あんなにヒント出してるのに…」

「あれ、ばれてた?」

「ばればれですよ。はじめましてが、なんで名前を知ってるんですか。しかも、さっき貰ったから対価はいいなんて、あんまりですよ。一瞬どこか壊れちゃったのかと本気で焦ったじゃないですか」

 口を尖らせるリコに、マスターがばつが悪そうに苦笑する。

 リコはその表情にちょっとだけ笑って、それからまた、盆に乗せたカップに視線を落とした。

「あんな綺麗な人が、重罪を犯したわけでもないのに『来世(つぎ)』に行けないなんて、なんだか切ないですね」

 その声は、視線同様沈んでいた。マスターは口元だけで小さく笑むと、自分もまた、自分のカップの中の残り少ない紅茶を見下ろした。

「マダム・ボールダーはね、若いだけで才能も金もない、しかし自分が愛していた絵かきの恋人を捨てて、裕福な貿易商の求婚を受けて、その後籠の鳥として笑うことなく生きたんだ。そしてマダム・ロワールは、評判は悪いが自分を愛してくれる裕福な貿易商の求婚を断って、貧しい絵かきの妻となり、それこそ泥水を啜るようなひどい暮らしを送った」

「じゃあ、彼女がいつも指定する時間って、」

「そう。ボールダー氏からプロポーズをされる日のその瞬間だ。彼女の人生の時間が二つに別れる分岐点だね」

 口を挟んだリコに頷いて、マスターが淡々と言葉を続ける。

「どっちの時間を選んでも、彼女はいつも後悔しかしない。それは、ボールダー氏のせいでも、ロワール氏のせいでもない。選んだ時間を、彼女自身がそういうふうに生きることにしか使わないからだ。選択は一つでも生き方は一つじゃない。それに気づかず、すべてを選択の誤りと決めつけて、過ぎた時間を嘆き恨むだけの彼女には、目の前で光輝いている『来世(つぎ)』の扉は見えないままさ」

 言い切って、マスターがゆっくりとカップを口に運ぶ。リコは盆を抱えたまま、考え込むように黙って眉を曇らせた。

 ややあって、カップがマスターの口から離れて再びソーサーの上でカチャンと小さく鳴った。それを区切りに、リコは重いため息と一緒に思いを声にした。

「人って難しいですね。人の生に正解も間違いもはじめからないのに。なんでみんな、正しい人生なんてありもしないものを求めるんでしょう?」

 マスターは軽く肩を竦めて返した。

「さあねえ、人になったことがないからなあ。………でも、分からないけど、きっと多分」

「きっと多分?」

「みんな幸せになりたいと思っている割に、幸せが何か知らないってことが、理由の一つじゃないかなあ」

 考えるように言って、伸びた前髪の隙間から若草色の目がリコを見る。

 リコはじっとその目を見つめ返した後で、やっぱり重いため息を吐いた。

「やっぱり、難しいですね、人は」

 やれやれと言わんばかりに首を横に振るリコに、マスターが表情を変え、どこかからかうように言う。

「嫌になった?」

「まさか。嫌になれるくらいだったら、最初から時間屋なんて面倒な仕事選んでませんよ」

 ぴしゃりと即時に言い返せば、「それは頼もしい」と、おどけた声が返ってきた。リコはそれに少し笑ってから、カップをひとつだけ乗せた盆を手にキッチンへと踵を返した。

 その途中ふと、脇に置いたままだった箒の存在を思い出して、マスターを振り返る。

「マスター、それ飲み終わったら、流しに置いといてください。私、これ洗ったら外の掃除してきますから」

「ええ。いや、もういいでしょ、掃除は」

「だって今日私、仕事らしい仕事してないし、することないんですもーん」

「別にいいじゃない。ああ、そうだ。暇だったら、リコもお茶淹れて飲んだら?」

「味も香りもしないのに?」

「そこはほら、想像力を駆使してさあ」

 マスターの提案にリコはほんの少し俯いてから、すぐまた勢いよく顔を上げた。

「ちょっと魅力的ですけど、でも私、まだそこまで想像力育ってないですし、お茶は先の楽しみに取っておくことにして、今日のところはやっぱり掃除にします。明日は忙しくって、掃除できないかもしれないし」

「いやいや、これまで掃除もできないほど、そんなに忙しかったこと一度もないじゃない」

「わっかんないですよー? 明日がその初めての日かも!」

 呆れたふうに言うマスターに元気よく言って返して、リコは再びキッチンへと踵を返した。

 その背中を、古い色付き窓から差し込む午後の光がセピア色に染める。しかし、後ろに目がついているわけでもなければ、前を見て歩くリコにそれが分かるはずもなく。

 それと同じで、キッチンに消えていく自分を見送る若草色の目が、眩しげに、優しく細められていたことも、リコにはまだ知る由もなかった。

 

 

『時間屋』【終】

(2014/10/28)

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