top of page

【 02 】 - 2

 

「そうか。その身体では茶が飲めぬのか。残念だな。真生の茶は美味いのに」

 炬燵机の上、平皿からぴちゃぴちゃと器用に舌で牛乳を舐め飲むゴロウさんを見ながら、フィーが本当に残念そうに言う。

 ちなみにゴロウさんは、炬燵机の周りに座る俺達と違って、炬燵机の上に座っている。最初は俺達と同じように座っていたのだけど、それでは俺達からゴロウさんが見えなかったのだ。小さすぎて。

「いやいや、これも充分美味じゃった」

 ゴロウさんは一通り牛乳を舐めつくしてから、汚れた口周りの毛もそのままに顔をあげた。赤い小さな舌で、ぺろぺろと口周りを舐め、正面の俺に向かって律儀に頭をちょこんと下げる。

「気を使わせてすまなかったのう、真生殿。ありがとう」

「いえっ、そんな、とんでもないでございますっ。宜しければお代わりなぞもございますですが、いかがでしょうかっ」

 思わず咄嗟に頭を下げると同時に慌ててそう返せば、右隣からフィーが呆れた声を寄越した。

「何だ、その妙な言葉使いは。阿呆丸出しだぞ、お主」

「いや、だって…」

「人の子は、名前に神ってつけば、それだけで敬う現金な動物だからな。大体、オレだって客なのに、お代わりとか一度も訊かれたことないんだけどー?」

「あ、シシィってお客さんだったの。知らなかったや、ごめん」

 左隣から面白くなさそうに口を曲げて言ってきたシシィに、感情を込めずに言って、白い目を向ける。

「てか、客だって意識が少しでもあるなら、物を片っ端から壊していくのやめてくれない? マジで迷惑なんだけど」

「それはあれじゃん。ちょっと触ったくらいで壊れる根性なしのほうが、悪いんじゃん?」

「電池で動いてるリモコンや時計に、根性があってたまるか」

 相変わらず反省する様子が全くないシシィに、怒り半分、諦め半分の声をあげたところで、ゴロウさんが、げふぅっと、その小さな体に似合わない立派なげっぷを響かせた。

「おお、こりゃあ失礼した。お代わりは気持ちだけ頂くとするよ。なんせ、この体じゃ。胃も小さいからのう」

 言ってゴロウさんはもう一度、げふっと、げっぷをした。その様子を両手で湯飲みを抱えたまま見ながら、フィーが口を開く。

「しかし、その身体では何かと不自由であろう。神魂とは、ほんに厄介なものよなあ」

「なあに、慣れてしまえば、これも悪くないもんじゃよ」

「尻尾ふっさふっさだしな」

 気安く口を挟んで、シシィがまたゴロウさんの尻尾で遊びだす。フィーは軽く肩で息を吐くと、気を取り直すようにお茶を一口飲んで、再びゴロウさんへと目を向けた。

「で。先ほどの話だが」

「おお、そうじゃ。時間がないんじゃ」

 シシィが喜ぶままに尻尾を動かしていたゴロウさんが、フィーの言葉に動きを止め、はっはっと口で息をしながら、俺に顔を向ける。

「真生殿。どうか、あれを返していただきたい。初代の血を継ぎ、城戸の姓を持つ者が、伝家の秘宝として代々保管しておるはずなんじゃが、生憎とわしには在り処が分からん。現当主に会えれば、話は早かったんじゃがのう。しかし、真生殿も歳若いとはいえ、同じ血を受け、城戸の姓を名乗る一人。血を継いでおらずとも、在り処が分かるはずじゃ。どうか、力を貸しては貰えんか」

 潤んだ大きな瞳で縋るように見られて、思わず、はい。と、即答しそうになった。それを押し留めたのは、伝家の秘宝というゴロウさんの言葉への興奮と、すっと伸びてきたフィーの手の存在。

 フィーは、俺が口を開くのを制するように俺の前に手を出しながら、真っ直ぐゴロウさんを見ていた。

「待たれよ、誘いの御神。この人間は今、この水の姫の主だ。いくらそなたがこの地の神であろうと、我が主に関わることならば、まず、私の許しを得るのが筋であろう?」

 いつにもまして権高な表情で顎をあげて、フィーが威圧するように言う。古い知り合いみたいだったし、そうじゃなくても、ついさっきまで朗らかに談笑していた相手だというのに、今そうやってゴロウさんに向けているフィーの目は冷たさを感じるほど厳しかった。それに刺激されたように、空気まで急に硬さを持つ。

「ふむ。それもそうじゃの」

 俄かに硬くなった空気の中、ゴロウさんは納得したように頷くと、フィーに真っ直ぐ顔を向けて口を動かす。

「ではお許しを願いたい、罔象三姫。御身が主と定める者の力を、わしに貸してほしい」

 フィーはまるで見定めるかのように目を細め、顎をややあげたまま、声を硬く尖らせた。

「我が主に何一つ害が及ばぬと、そなた、この水の姫に誓えるか?」

「誓おう」

「万が一にでも、我が主が爪の先僅かでも損うことがあらば、釈明の余地なく、その場で私はそなたを屠ろう。次第によっては、天になど永久に還さぬ。それでも、か?」

 ゴロウさんは耳をぴんと立てて、しっかりフィーを見ながら頷いた。

 俺は内心で、何もそこまでと思ったものの、口を挟めるような雰囲気じゃなかった。硬く張り詰めていく空気に、無意識の内に萎縮されて肩が縮こまっていく。

「ならば、証として我に汝のミトラを」

 厳しくも重々しい口調でフィーが言い、手のひらをゴロウさんの頭の上に置く。見つめる青い目が、研ぎ澄ましたかのように鋭さを増していた。

「果たされた暁には、汝に我の祝福を与えよう。だが、破られし時は、我の力にて汝を滅す。依存はないな?」

「ない」

 少しの躊躇いもないゴロウさんの返事を受けて、フィーが俺には聞き取れない言葉で何か言う。途端、ゴロウさんの黒い円らな瞳が、赤く染まった。いや、赤というより朱色だ。朱色に光っている。はっとして見れば、フィーも、銀色に光っていた。あの時と同じだ。俺がはじめてフィーに会った日の、あの契約の時と同じように、フィーは薄い膜のような銀色の光に全身包まれている。違うのは、指輪が何の反応もしていないことだ。

 何とも言えない不安を覚えて、指輪に目をやる。そこには、いつも通りの青を湛えた石が、静かに、ただあった。

 恐らく、二人の間で契約が交わされているに違いないのに、魂は動かないでいいのだろうか。それとも、人と精霊の契約と、神と精霊の契約ではやり方が違うのだろうか。それとも………。

「ミトラにヴァルナの祝福を」

 聞こえてきた聞き取れる言葉に、はっとなって顔をあげる。既に、フィーもゴロウさんも普通の状態に戻っていた。

 黒の、いかにもチワワらしい潤んだ大きな瞳に戻ったゴロウさんが、フィーを見ながら、その円らな瞳を細める。

「よほど、その主が大切なようじゃのう」

「大事なものを託しておるは、私も同じゆえな」

 フィーもフィーで、すっかり穏やかな表情に戻っていた。

「それでこやつを守れるのであれば、何であろうと私は厭わぬ」

 涼しげな笑みと一緒にさらりと言って、フィーは湯飲みを口に持っていく。俺は何となく、目のやり場というか、身の置き場がなくて、下を向いて、もぞもぞと足を組直した。

 普段口には出さないけど、日々常にフィーが指輪だけじゃなく、その所有者である俺をも守ってくれていることは俺も分かっている。今の俺に、自分で自分を守る力がないことも。だけど、そうやって俺を守ろうとするフィーが、けして強いだけではないことも、俺は知っている。

 

 ―――いつになったら俺は、守られるだけの存在じゃなくなれるのだろう……。

 

 胸の奥で疼くように渦巻く、微妙に苦い感情をやり過ごすべく、お茶を啜った。その俺の左で、シシィが間延びした声を出す。

「でさああ? その返して欲しい『もの』って、何なわけー?」

 フィーとゴロウさんのやり取りを珍しく長いこと黙って見ていたから、彼なりに退屈だったらしい。両肘をついて、そこに暇そうな顔を乗せてゴロウさんを見るシシィに、ゴロウさんがはっきりと言って返す。

「櫛じゃよ」

「櫛?」

 その答えに思わず、シシィよりも先に俺が、きょとんとした声をあげてしまった。慌てて、取り繕う。

「あ、えっと。櫛、なんですか?」

 声同様、恐らくきょとんとした顔を隠せていない俺に、ゴロウさんが、はっはっと舌を出しながら頷いて返す。

 櫛。櫛って言えば、髪を梳く櫛しか思いつかない。というか、それしかないだろう。

 不敬ながら、少し気が抜けた。伝家の秘宝なんていうから、もっと凄いものを想像していた。宝石のはめ込まれた黄金の太刀とか、歴史がひっくり返るような秘密が記された古文書とか、そういう類の何か凄いものを。

 まあ、考えてみれば、普通の一般庶民の俺の家に、そんな国宝レベルの宝があるわけがないのだけど。そういう凄い宝があるのは多分、蔵なんかがあって、家系図なんかも大昔からある由緒正しい家だろう。うちには蔵も家系図も、正しい由緒も何もない。勝手に興奮していた俺が、馬鹿だった。

 いや、でも、待てよ。落ち着いて改めて考えれば、何であろうと神様から預かり物をしている時点で、かなり凄いことではないだろうか。その初代って人が、ゴロウさんを神様だと知った上でそれを預ったのかどうかはともかくとして、神様が自分の物を預けるくらいだ。今では普通の一般庶民だけども、初代の時代には、そうじゃなかったのかもしれない。どれだけ昔の人か分からないけど、もしかしてもしかしなくても、英雄的存在の凄い人物だったのかもしれない、うちのご先祖は。

「櫛ねえ。なんでまた、そんなものを人の子に預けたんだよ」

 まさに今俺が聞きたいと思っていたことを、シシィが口にした。本当になんで、ゴロウさんはその人に、櫛を預けようと思ったんだ。うちの初代は、一体何者なんだ。

 妙な期待と興奮に、唾をごくりと飲み込む俺の前で、ゴロウさんが何食わぬ調子で言葉を返す。

「人と言っても、城戸の初代はわしの子じゃ」

 瞬間、飲み込んだ唾が思いっきり、気管に入った。

 

次→

←前

 

 

▲Page top

 

bottom of page