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【 01 】 - 3

 

 ふわりと目の前を横切ったモンシロチョウが、歩道の隅、アスファルトの割れ目から生えたタンポポの花へと飛んでいく。普段なら気にも留めないそんな光景を目で追いかけてまで眺めてしまうのは、麗らかな春の陽気が、気持ちをゆったりと大らかにしているせいだろう。長閑な日差しに時間の流れすら、まどろんでいるかのように緩やかに感じる。

 今日はバイトは休みだし、この後何の予定もない。まあ多分、飯食ったらレネ探しに引っ張り出されるだろうけど、それはそれ。キャベツと豚肉と牛乳と羊羹の入ったエコバック片手に、のんびりと散歩感覚で、アパートへ続く路地を歩く。

 フィーは、両手を後ろで組んで俺の少し前を歩きながら、道々、民家の庭先のつつじや道端の野草に目を留めては、足まで止めていた。その黒い髪が陽の光に艶々としていて、本来の銀色だったらきらきらして眩しいんだろうなとか、どうでもいいことを欠伸混じり考えていたら、不意にフィーが、思い出したように振り返った。

「そうだ、真生。ごおるでんういいくとは、何だ?」

「はぇ?」

 欠伸の途中だったから、間抜けな声が出た。フィーはくるりと体ごと振り向くと、青い目を向けてくる。

「昼に孝達と話しておっただろう? ごおるでんういいく、どうするとか、何とか。最近テレビでもよく聞くし、何か祭りでもあるのか?」

「ああ、ゴールデンウィークね。大型連休のことだよ。来週から暫く祝日とかが続いて休みが続くんだ。帰ったらカレンダーで説明してやるよ」

「へえ。世の中の人間全員休みになるのか?」

「いや、全員ってわけじゃないけど。まあ、俺達学生は普通に暫く休みだな。危ないから、前見て歩け」

 こっちを見ながら後ろ向きで歩くフィーに答えつつ注意すれば、フィーは大人しく体の向きを変えて、俺と並んで歩きながら、どこかうきうきとした声を出した。

「ほう。大学は休みか。ならば、気兼ねなく朝から晩まで、レネさ」

「おう。気兼ねなく朝から晩まで、バイトのシフトみっちり入れた」

 最後まで聞かず、ばっさり言って返す。一瞬の間の後、フィーは思った通り、白けたように肩を落として呆れの目を寄越した。

「お主は暇さえあれば、バイトバイトと……。どれだけバイトが好きなのだ」

「別に好きじゃないよ」

 俺だって、遊んでいるほうが断然好きだ。だけど、皐月さんがどこでどうしているか分からない以上、万が一何かあった時のために少しでも収入は多めにあったほうがいい。

 心の隙から際限なく入り込んでくる不安を追い払うべく小さく息を吐いて、隣を歩くフィーに視線を落とす。

「もうシフト入れちゃってるから、何言っても無駄だぞ。ちゃんとレネ探しはするから」

「まあ、レネ探しが疎かにならぬなら、私としては文句はないが」

 言いながら視線を返し、フィーは少し肩を竦めた。

「たまには電話やメールだけでなく、直接会う時間を作らねば、彩乃に愛想を尽かされるぞ」

「まーた、始まった」

 もはや何度したか分からない話に、ややげんなりして前を向く。

「彩乃ちゃんとはそんなんじゃないって、百回くらい言ってんだろ。いい加減怒るぞ」

 百回はちょっと大袈裟だけど、少なくとも二十回は言っていると思う。にも関わらず、俺と彩乃ちゃんに対するフィーの勘違いは、今尚現在進行形で健在だ。俺達の何をどう見てそう思い込んだのかは不明ながら、彩乃ちゃんが知ったら、それこそ唖然とするだろう。なんというか、申し訳ない。

「お前、頼むから間違っても他の人の前で、俺と彩乃ちゃんがどうのこうのとか言うなよ。彩乃ちゃんに失礼になるんだからな」

「見くびるな。そのような無粋なこと誰がするか」

 即座に返ってきた声に、いや今まさに無粋だよね、俺に対して。と、突っ込むべく顔を向ければ、フィーは気遣うような目を真っ直ぐ俺に向けていた。

「心配せずとも冷やかしたり、囃したてたりはせぬ。私が邪魔ならば、半日くらい指輪の中で目も耳も塞いで大人しくしておるゆえ、遠慮せずに逢瀬を楽しんで良いのだぞ?」

 吸い込まれそうなほど青い目にじっと覗き込まれて、しまったと内心思った時にはもう遅かった。不可抗力とでもいうか、つい見つめて返してしまったその目に、胸の奥から罪悪感のような嫌な感情がもやもやと湧いてくる。理由の分からないその妙な現象にもはや慣れはしたけど、やっぱり心地がいいものじゃない。

 ちょうどよくアパートに着いたのをいいことに、目を顔ごと逸らした。的外れな気遣いに嘆息するふうを装って、胸に溜まる罪悪感に似た嫌な感情に重い溜め息を吐く。一体いつになったら俺は、この妙な現象から解放されるのだろうか。

「そんな無駄な気遣いしなくていいから、もっと別のことに気を遣って欲しいんですけど」

「別のこと?」

 訊き返してくるフィーに背を向けて、アパートの階段を上りながら、投げやりに口を動かした。

「そ。夜中にシシィとゲームの勝ち負けで、迷惑極まりないケンカをしないとかさあ」

「あれは、シシィが悪いのだ」

「お前も悪いの」

 俺の後に続いて階段を上りながら声を尖らせたフィーに、背を向けたまま、ぴしゃりと言って返す。

「大体、お前ら何歳だよ。ゲームくらいで本気で腹立てて。部屋の中で台風並みの暴風雨巻き起こしたら、どんなことになるか、ちょっと考えれば分かるだろうが。俺、次の日、一限から授業だったんだぞ。それをさあ……」

 ぶつぶつと小言を並べている途中で不意に、ぐいっと後ろから服を掴まれた。

「なに?」

 引き止めるようなその行動に、足を止めて振り返る。フィーは俺の服を掴んだまま、無言でじっと階段の上、俺の部屋がある階の通路のほうを透かし見るように見つめていた。

 何事かを真剣に推し量っているようなその顔つきに、一気に身体が硬くなる。突然降って湧いた緊張に戸惑いつつも、気がつけば咄嗟に、ほぼ無意識で、右手で左手を、そこにある指輪を庇っていた。だけど、そうやって顔を強張らせる俺とは逆に、フィーはすぐに表情を緩めた。掴んでいた手を離すと同時に、その顔を俺に向ける。

「真生。珍しい客が来ておるぞ」

「客?」

 

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